憑依
55
豊雄は頷いた。彼は何も手をつけていなかった。ビールをちびちびなめているだけだった。彼は、ぽっかり空いた心の穴のことを考えていた。兄の提案はうれしかった。もしかしたらこの心の穴を埋めることができるかもしれない。この穴は思っている以上に大きい。怪奇、驚愕、気味悪さ。いったいどんな言葉で表せよう。人間不信、現実感覚の喪失、きれいでおとなしい女性とすれちがっても、素直に好意を抱くことができない悲しみ。これからの生き方の方針がまったく立たなかった。叔父の家にいるからまだよかった。一人だったら、発狂していたかもしれない。弟を心配して、世話を焼いてくれる兄がいてうれしく思った。兄貴だって死ぬほど忙しいのに。おれはだめなやつだ。心に隙があるから、変なものにみこまれるのだ。兄貴にも親父にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
豊雄の考えがわかると、武一郎はほどなくして、自分にあてがわれた部屋に戻った。豊雄は疲れていたし、懐かしい昔話を語りあう心境でもなかったので、無理に兄を引きとめはしなかった。兄が去るのと入れ替わるかのように入ってきた小百合が、食器類を片付けると、今度こそ豊雄は一人になった。真名美のいった結婚のしきたりのようなことを、菜摘の実家でしていたことがあるのなら、やはり、真名美は、菜摘の霊に操られた屍だったのだろう。もちろん、そんなことを確認しても今の自分の心の谷を埋めることになるとはあまり思えなかったが、やっぱり何かやってみずにはいられない気持ちだった。何かしないと、生きていく気力が湧いてこないような気がする。どんなことにでもすがりたい。意味はともかくとして、行動するための動機がほしい。今は、菜摘の実家に話を聞きにいくという目的ができた。とりあえずこれを実行するまでは、今までどおりに生活してみよう。そのあとはどうするか? それは菜摘の実家にいったあとで考えるしかない。
菜摘の実家は、安藤といい、和歌山県では由緒正しい家系である。江戸時代の初めごろまで遡ると、紀州藩の家老を務めたこともある家柄だ。そこから派生した菜摘の祖先は、軍人として、明治の世には陸海軍で相当活躍していた。そして、昭和の敗戦を機に、野に下ると、今度は実業の分野でほしいままに財を成した。
和歌山城や和歌山県庁のある、市の中心部に、風格のある安藤家の邸宅が、高い塀に囲まれて、市内の喧騒をよそに、ひっそりと建っていた。
着なれないスーツ姿の、ちょっと人目を引くほど容姿のいい二人の男が、いかめしい門扉の前で、人が出てくるのを待っていた。引き戸があき、旅館のように広い玄関から、年配の女性と若い女性がにこやかにでてきた。二人は門扉の外にたたずんでいる男たちに駆け寄る。
豊雄の考えがわかると、武一郎はほどなくして、自分にあてがわれた部屋に戻った。豊雄は疲れていたし、懐かしい昔話を語りあう心境でもなかったので、無理に兄を引きとめはしなかった。兄が去るのと入れ替わるかのように入ってきた小百合が、食器類を片付けると、今度こそ豊雄は一人になった。真名美のいった結婚のしきたりのようなことを、菜摘の実家でしていたことがあるのなら、やはり、真名美は、菜摘の霊に操られた屍だったのだろう。もちろん、そんなことを確認しても今の自分の心の谷を埋めることになるとはあまり思えなかったが、やっぱり何かやってみずにはいられない気持ちだった。何かしないと、生きていく気力が湧いてこないような気がする。どんなことにでもすがりたい。意味はともかくとして、行動するための動機がほしい。今は、菜摘の実家に話を聞きにいくという目的ができた。とりあえずこれを実行するまでは、今までどおりに生活してみよう。そのあとはどうするか? それは菜摘の実家にいったあとで考えるしかない。
菜摘の実家は、安藤といい、和歌山県では由緒正しい家系である。江戸時代の初めごろまで遡ると、紀州藩の家老を務めたこともある家柄だ。そこから派生した菜摘の祖先は、軍人として、明治の世には陸海軍で相当活躍していた。そして、昭和の敗戦を機に、野に下ると、今度は実業の分野でほしいままに財を成した。
和歌山城や和歌山県庁のある、市の中心部に、風格のある安藤家の邸宅が、高い塀に囲まれて、市内の喧騒をよそに、ひっそりと建っていた。
着なれないスーツ姿の、ちょっと人目を引くほど容姿のいい二人の男が、いかめしい門扉の前で、人が出てくるのを待っていた。引き戸があき、旅館のように広い玄関から、年配の女性と若い女性がにこやかにでてきた。二人は門扉の外にたたずんでいる男たちに駆け寄る。