憑依

56
「まあ、よくおいでくださりました」年配の女性がおじぎをする。菜摘の母だ。男たちも慌てて丁寧に頭を下げる。
「すみませんね。お忙しいところを押しかけまして」武一郎がいった。
「なにいってるの。いつでも気軽にきてくださいよ」母の口元や目の形に菜摘の面影があると、豊雄は思った。「豊雄さんも立派になって」と、豊雄にも言葉をかける。大宅家に嫁いで、豊雄とおかしな具合になったということを薄々知っているようだが、まったくこだわらずに接してくれるのが、かえって豊雄には苦しかった。「ささ、おあがり下さい」と、背中を向けたので、二人はついていく。母親と一緒に出迎えたお手伝いさんが、二人に寄り添うようにして、持ち物をもったり、履き物の面倒をみたりしてくれた。
「いきなりこんな変なことをきいたりしてすみませんでした」
よく日に焼けた、胸板の厚い、菜摘の父親は、武一郎と豊雄から、今までのいきさつと、二条家のしきたりという、あまりにも非常識な出来事に当惑していた。腕組みをしてうなっている義姉の父を、豊雄はきまり悪そうに見ていた。直接対面して話をするのは、従兄の結婚式以来である。
「しかし、亡くなったものの悪口をいうのもなんだけどね。菜摘には本当にがっかりさせられたよ。武一郎さんを裏切るだけでもとんでもないことなのに、豊雄さんまでそんな怖い目にあわせたなんてねえ」遠くを見る目をした。「そんな節操のない娘に育てた覚えはないのだけどなあ」最後は、二人にいうというのではなく、情けなさ、ふがいなさを噛みしめたつぶやきだった。
「お義父さん、ぼくが悪いんです。ぼくがだらしない男だから」
「違う」武一郎は彫りの深い目を豊雄に向けた。「今だからいうけど、おれ最初からわかってたんだ。菜摘がお前に気があるってこと。おれ菜摘に一目惚れして、のぼせあがってたし、お前は高校生だし、将来のことを考えておれたちを一緒にさせたいっていう親父とかお義父さんとかの気持ちもわかってたから、得意になって結婚したんだ。それが、そもそも間違いだったんだよ」
「兄貴……」豊雄は目を見張った。何かいおうとするのを武一郎が制する。
「いや、そうなんだ。結婚してはじめの一年ぐらいは、おれとうまくやっていこうとしていたし、おれもそうしようとしていた。あの猫が来て、お前と一緒に世話をするようになってから、自分の気持ちを抑えるのが難しくなったんだろうな。おれもそのころは、漁師仲間で飲み歩くようになったから、余計に寂しくさせたと思う。菜摘がお前と数学の勉強をしたいといいだした時、内心ではほっとしていたんだ。大学に通ってもいいよっていったら、うれしそうにしていたよ。何も起こらなければ、お前と大学に通っていたかもしれないな。おれは、頃合いを見計らって、お前たちを一緒にしてもいいと、すぐには難しくても、そのうちにそんなふうな気持ちになれるようにしようと考えはじめていたんだ」
「すみませんね。お忙しいところを押しかけまして」武一郎がいった。
「なにいってるの。いつでも気軽にきてくださいよ」母の口元や目の形に菜摘の面影があると、豊雄は思った。「豊雄さんも立派になって」と、豊雄にも言葉をかける。大宅家に嫁いで、豊雄とおかしな具合になったということを薄々知っているようだが、まったくこだわらずに接してくれるのが、かえって豊雄には苦しかった。「ささ、おあがり下さい」と、背中を向けたので、二人はついていく。母親と一緒に出迎えたお手伝いさんが、二人に寄り添うようにして、持ち物をもったり、履き物の面倒をみたりしてくれた。
「いきなりこんな変なことをきいたりしてすみませんでした」
よく日に焼けた、胸板の厚い、菜摘の父親は、武一郎と豊雄から、今までのいきさつと、二条家のしきたりという、あまりにも非常識な出来事に当惑していた。腕組みをしてうなっている義姉の父を、豊雄はきまり悪そうに見ていた。直接対面して話をするのは、従兄の結婚式以来である。
「しかし、亡くなったものの悪口をいうのもなんだけどね。菜摘には本当にがっかりさせられたよ。武一郎さんを裏切るだけでもとんでもないことなのに、豊雄さんまでそんな怖い目にあわせたなんてねえ」遠くを見る目をした。「そんな節操のない娘に育てた覚えはないのだけどなあ」最後は、二人にいうというのではなく、情けなさ、ふがいなさを噛みしめたつぶやきだった。
「お義父さん、ぼくが悪いんです。ぼくがだらしない男だから」
「違う」武一郎は彫りの深い目を豊雄に向けた。「今だからいうけど、おれ最初からわかってたんだ。菜摘がお前に気があるってこと。おれ菜摘に一目惚れして、のぼせあがってたし、お前は高校生だし、将来のことを考えておれたちを一緒にさせたいっていう親父とかお義父さんとかの気持ちもわかってたから、得意になって結婚したんだ。それが、そもそも間違いだったんだよ」
「兄貴……」豊雄は目を見張った。何かいおうとするのを武一郎が制する。
「いや、そうなんだ。結婚してはじめの一年ぐらいは、おれとうまくやっていこうとしていたし、おれもそうしようとしていた。あの猫が来て、お前と一緒に世話をするようになってから、自分の気持ちを抑えるのが難しくなったんだろうな。おれもそのころは、漁師仲間で飲み歩くようになったから、余計に寂しくさせたと思う。菜摘がお前と数学の勉強をしたいといいだした時、内心ではほっとしていたんだ。大学に通ってもいいよっていったら、うれしそうにしていたよ。何も起こらなければ、お前と大学に通っていたかもしれないな。おれは、頃合いを見計らって、お前たちを一緒にしてもいいと、すぐには難しくても、そのうちにそんなふうな気持ちになれるようにしようと考えはじめていたんだ」