憑依

花
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 「でも、とにかく、私らも家の中をよく探してみるわ。わかったら、連絡するから待っててね」
 その辺が話の潮だった。二人は意気消沈して家路についた。和歌山城に夕日が落ちかかり、そこだけ見ると、江戸時代の侍になった気分だった。家老ではなくて、脱藩した浪人の気分だ。

 大阪府茨木市の国道一七一号線から三本ぐらいひっこんだところにある蕎麦屋で武一郎と豊雄は汗をかきながら天ざるを食べていた。蕎麦湯をつぎにきた店主の奥さんとおぼしき、そう若くはない女に、武一郎は世間話のように声をかけた。
 「このお店の裏の井上さんは、今日はどこか出かけてるんですかねえ?」
 女性は不審げに武一郎を見た。
 「お客さん、井上さんのお知り合い?」
 数日前に、安藤家から電話があった。菜摘の祖母に仕えていた女中の名前と住所がわかったのだ。それで、こうして二人でやってきた。井上節子という名前だそうだ。
 「ええ。妻の実家のばあさんの十回忌なんでね、ずいぶんと親しかった井上さんにも出席してもらおうと思って、やってきたんですよ」
 「あら、そうなの。でも、井上さん、五年ぐらい前に引っ越してしまいましたよ」
 店に入る前に、二人は井上の家を見ていた。何度呼び掛けても返事をしないし、外には枯れた草花の入った鉢がいくつかあるだけだったので、この結果は予想した範囲だった。蕎麦屋に入ったのは、それを確認して、転居先を教えてもらうのが目的だった。蕎麦屋の奥さんは、二人のことを親類か知人だと信じて安心し、問われるままに話をしてくれた。しかし、わかったのは、五年前に転居したことと、だんなさんが亡くなったので、息子夫婦の家に引き取られることになったということだけで、息子夫婦の住所どころか、姓名もまったく聞いたことがないのだそうだ。たまに顔を合わせればあいさつする程度の付き合いだったし、店に来たことも数えるぐらいしかなかった。あまり人には混じらず、家にこもってひっそり暮らしていた。六十の半ばといったところか。知っていることは、そんなところだった。
 「どうもいろいろと教えていただきまして助かりました」二つ折りの財布から紙幣を取りだしながら、武一郎はさわやかな笑顔を見せた。
 「ごちそうさまでした」豊雄は深く頭を下げた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日