憑依
68
それからもう一つわかったことがある。
数学への興味が薄れていないということだ。賢素の言い方が気にいったのかもしれない。〈現代において、一番難解で、生活に無縁で、真理を探究するもんいうたら、数学じゃ。〉そのとおりだ。真理の探究ということを考えたことはあまりなかったが、生活に無縁というのはそのとおりだ。忘れたいことがたくさんあった。思い出したくないことが山のようにある。これから先の人生のことを考えたくない。そして──。そう、縁のことだ。これから先どんな女と出会っても、絶対にうまくいかない気がする。自分と親しくなる女が現れたら、真名美のようになるにちがいない。それが怖くて女の子に近寄れなくなった。だから、生きる意味が感じられなくなった。ところが、賢素の言葉で何かが変わってきた。胸のなかで風船が膨らんできたのだ。そして、それは、パチンコをしながら、二日目、三日目と、次第に大きくなるようだった。
パチンコの成果はさっぱりだった。二人は連れ立って近くの朱雀に行った。
カウンターにせいぜい十脚の丸イスが並べられているだけの店だ。世間で評判のある店なのかどうかはわからない。ただ、おいしいと思った。週刊誌を眺めながら待っていると、ゴマ塩ひげのおやっさんがにこにこしながらどんぶりを出した。匂いが立ちのぼり、胃がきゅうっと鳴る。賢素はいきなり焼き豚を口に持っていった。豊雄も負けじと焼き豚を箸でつかんだ。
「ここのチャーシューうまいよな」
「うん。汁気がとんで、パサっとしとるのがいいな」
「普通のラーメンなのに、結構たくさん入ってるしな」豊雄は大きめの焼き豚を口の中に半分入れ、かみごたえを楽しんだ。
「だけど、なんでこの店、朱雀って名前なんや?」賢素は生粋の京都人だが、言葉は京言葉というよりは、こてこての関西弁だった。
「さあ? そんなこと知るわけないだろ」豊雄は、標準語を使用しているが、アクセントからすぐに関西人とわかる。
豊雄が首をかしげると、湯気の向こうの笑顔が答えた。
「昔、学生の時に麻雀にはまってもうたんや」
「えー? おっちゃん、大学出てたんか?」
「中退や。麻雀で身を崩したんや。赤貧になってもうた。麻雀で赤貧になったさかい、朱雀ってつけたんや」
賢素は麺をつまんだままぼけっとしていた。
数学への興味が薄れていないということだ。賢素の言い方が気にいったのかもしれない。〈現代において、一番難解で、生活に無縁で、真理を探究するもんいうたら、数学じゃ。〉そのとおりだ。真理の探究ということを考えたことはあまりなかったが、生活に無縁というのはそのとおりだ。忘れたいことがたくさんあった。思い出したくないことが山のようにある。これから先の人生のことを考えたくない。そして──。そう、縁のことだ。これから先どんな女と出会っても、絶対にうまくいかない気がする。自分と親しくなる女が現れたら、真名美のようになるにちがいない。それが怖くて女の子に近寄れなくなった。だから、生きる意味が感じられなくなった。ところが、賢素の言葉で何かが変わってきた。胸のなかで風船が膨らんできたのだ。そして、それは、パチンコをしながら、二日目、三日目と、次第に大きくなるようだった。
パチンコの成果はさっぱりだった。二人は連れ立って近くの朱雀に行った。
カウンターにせいぜい十脚の丸イスが並べられているだけの店だ。世間で評判のある店なのかどうかはわからない。ただ、おいしいと思った。週刊誌を眺めながら待っていると、ゴマ塩ひげのおやっさんがにこにこしながらどんぶりを出した。匂いが立ちのぼり、胃がきゅうっと鳴る。賢素はいきなり焼き豚を口に持っていった。豊雄も負けじと焼き豚を箸でつかんだ。
「ここのチャーシューうまいよな」
「うん。汁気がとんで、パサっとしとるのがいいな」
「普通のラーメンなのに、結構たくさん入ってるしな」豊雄は大きめの焼き豚を口の中に半分入れ、かみごたえを楽しんだ。
「だけど、なんでこの店、朱雀って名前なんや?」賢素は生粋の京都人だが、言葉は京言葉というよりは、こてこての関西弁だった。
「さあ? そんなこと知るわけないだろ」豊雄は、標準語を使用しているが、アクセントからすぐに関西人とわかる。
豊雄が首をかしげると、湯気の向こうの笑顔が答えた。
「昔、学生の時に麻雀にはまってもうたんや」
「えー? おっちゃん、大学出てたんか?」
「中退や。麻雀で身を崩したんや。赤貧になってもうた。麻雀で赤貧になったさかい、朱雀ってつけたんや」
賢素は麺をつまんだままぼけっとしていた。