憑依

花
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72

 先日、賢素が急に来たときは、もうだめだと思った。しかし、意外にも賢素は、豊雄が大学を休んでいることを言わなかった。賢素が帰ってから、しばらく叔父や叔母、小百合の顔色をうかがっていたが、普段と違うところはなにもなかった。それまで豊雄は、賢素という人間がこういう気のつかえるやつだとは思っていなかった。ところが、実際は親身になって同級生を心配してくれる、やさしい男だった。この三日間、豊雄にそっと寄り添い、じわじわと更生させた。
 「ほな、おれはこれでいってみるわ」賢素は表通りから少し入ったところに止めてある真っ赤なポルシェのドアを開き、シートを倒し、狭い後部座席に大きな紙袋を積んだ。ポルシェは発進し、窓を開けて手を振る賢素の笑顔と紙袋から落ちた駄菓子が見えたと思ったら、もう遥かかなたに遠ざかっていた。
 豊雄と小百合は並んで市電のホームに入った。小百合は風呂敷包みを両手で抱えてまっすぐの背中で歩いている。
 「持ちますよ」
 さっと小百合は横を向いた。涼しい顔だ。
 「ええよ。あたしかて、結構重たいもの、毎日運んでますのよ」
 豊雄の両手が宙ぶらりんになった。
 「その包みは何ですか?」
 「ああこれ」小百合は市電の座席に行儀よく座った。「お得意さんへの菓子折りよ。石条庵で買うてきたの」
 「そうですか」
 二人は、それきり黙っていた。豊雄の方は落ち着かなかった。たまにちらっちらっと、小百合の顔をうかがう。何度目かに小百合と目があう。
 「ねえ、豊雄さんも旅行にいかしまへん? 優子ちゃんもいくし、楽しいわよ」
 「旅行?」
 「ええ、いつも秋にみんなで旅行にいくのどす。店のもんもみんなよ。今年は、海外にいく言うとったわ。」小百合は楽しそうに、左手で豊雄の肩をたたいた。
 「へえー。すごいですね。どうしようかな? ……考えておきますね」
 豊雄は、なにか不安を感じていた。そこはかとない不安感だが、さいきんそれがよくもたげてきた。特に女性に対して、なんらかの壁のようなものが感じられるのだ。だれかある女性に好感を抱くと、それに反発する強い力みたいなものが自分の行動にブレーキをかける。それが、今ももたげてきて、小百合への返事に抵抗感を抱かせた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日