憑依

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櫛で髪を撫でつけるときの感触が、いいようのないほどすばらしくて、手放したくないという思いが日に日に大きくなっていった。上等な油でもつけたように、髪が美しく輝き、しっとりと潤いを帯びる。そして、優子ちゃんの言うとおり、豊雄を意識しはじめた。優子ちゃんからそのことを聞いたときは、特になにも考えなかった。それなのに、この櫛を使えば使うほど、豊雄のことが恋しくなっていった。優子ちゃんからこんなことを聞かされたからだと思った。まさか本当に、櫛が自分になんらかの意識を植え付けるはずはないからだ。しかし、櫛を使うたびに、櫛先から伝わってくるような感情はいったいなんなのだろうか。豊雄、好き。豊雄、好き……。
気がつくと、いつも、トヨオ、スキ、とつぶやいていた。いつも豊雄の方へ視線がいっていた。気づかれるまえに、慌てて目をそらす。彼は、視線を察知するとき、だれに見られていたのか探して、きょろきょろする。一度だけ、見つめていたらまともに見られたことがある。思いがけなく、パチンコ屋から出てくる彼を見かけたときだ。彼はわたしに気づくまえから、なにかを探そうとして、きょろきょろしていた。そして、わたしに気づいたとき、一瞬、言いようのないほど、奇妙な顔をした。その顔には、不信感と嫌悪感がはっきりあらわれていた。しかし、次の一瞬にはもう、安堵感と親近感に変わっていた。わたしは、彼が自分に親近感を抱いてくれていることが、とてもうれしいと思った。そしてまたそのことに対して驚いた。わたしは、豊雄さんと親密になろうと思っているのだろうか。わたしには、深く愛する夫がいる。夫以外の男の人と関係を持つつもりはまったくない。わたしは、自分で言うのも気がひけるが、意志が強く、人に流されることはほとんどない。興味本位で危ないことに近づいたりもしない。気がついたらとんでもないことになっていた、なんていう経験もない。そのわたしが、気づいたら、豊雄さんを旅行に誘っていた。優子ちゃんが豊雄さんを奈良ドリームランドに誘うのを見ていて、優子ちゃんといっしょに、彼を誘った。ドリームランドのボブスレーに乗って、自分から豊雄さんの手を握りしめた。豊雄さんをとうとうハワイに連れてきた。サンゴ礁に足が届きそうな海中で、わたしの方から、彼にキスをせがんで、深いキスをしてしまった。そして、今、わたしは何をしようと考えている? さっきまで体が熱くなっていた。さっき、シャワーを浴びながら、海の底で抱き合った感触を思いだして、変な気持ちになっていた。カジノでみんなが夢中になっているすきに、豊雄さんを外へ連れ出して、浜辺で星を見ながら話をしようと考えていた。いつのまに、こんな不真面目な女になっていたのか? たぶん櫛のせい。つじつまは合わないけど、わたしはそれを確信している。櫛を使いはじめる前は、豊雄さんに特別な感情は抱いていなかった。ただ、やさしくて、ハンサムな縁者という印象だけ。もしかして、これが特別な感情? いや、そんなことはない。これも特別な感情というのだったら、人は、無数の特別な感情のせいで窒息死してしまうだろう。とにかく、もともとわたしは、豊雄さんと自分を結びつけて考えるようなことはしていなかった。櫛を優子ちゃんから譲り受け、髪をとかした瞬間からだ。
気がつくと、いつも、トヨオ、スキ、とつぶやいていた。いつも豊雄の方へ視線がいっていた。気づかれるまえに、慌てて目をそらす。彼は、視線を察知するとき、だれに見られていたのか探して、きょろきょろする。一度だけ、見つめていたらまともに見られたことがある。思いがけなく、パチンコ屋から出てくる彼を見かけたときだ。彼はわたしに気づくまえから、なにかを探そうとして、きょろきょろしていた。そして、わたしに気づいたとき、一瞬、言いようのないほど、奇妙な顔をした。その顔には、不信感と嫌悪感がはっきりあらわれていた。しかし、次の一瞬にはもう、安堵感と親近感に変わっていた。わたしは、彼が自分に親近感を抱いてくれていることが、とてもうれしいと思った。そしてまたそのことに対して驚いた。わたしは、豊雄さんと親密になろうと思っているのだろうか。わたしには、深く愛する夫がいる。夫以外の男の人と関係を持つつもりはまったくない。わたしは、自分で言うのも気がひけるが、意志が強く、人に流されることはほとんどない。興味本位で危ないことに近づいたりもしない。気がついたらとんでもないことになっていた、なんていう経験もない。そのわたしが、気づいたら、豊雄さんを旅行に誘っていた。優子ちゃんが豊雄さんを奈良ドリームランドに誘うのを見ていて、優子ちゃんといっしょに、彼を誘った。ドリームランドのボブスレーに乗って、自分から豊雄さんの手を握りしめた。豊雄さんをとうとうハワイに連れてきた。サンゴ礁に足が届きそうな海中で、わたしの方から、彼にキスをせがんで、深いキスをしてしまった。そして、今、わたしは何をしようと考えている? さっきまで体が熱くなっていた。さっき、シャワーを浴びながら、海の底で抱き合った感触を思いだして、変な気持ちになっていた。カジノでみんなが夢中になっているすきに、豊雄さんを外へ連れ出して、浜辺で星を見ながら話をしようと考えていた。いつのまに、こんな不真面目な女になっていたのか? たぶん櫛のせい。つじつまは合わないけど、わたしはそれを確信している。櫛を使いはじめる前は、豊雄さんに特別な感情は抱いていなかった。ただ、やさしくて、ハンサムな縁者という印象だけ。もしかして、これが特別な感情? いや、そんなことはない。これも特別な感情というのだったら、人は、無数の特別な感情のせいで窒息死してしまうだろう。とにかく、もともとわたしは、豊雄さんと自分を結びつけて考えるようなことはしていなかった。櫛を優子ちゃんから譲り受け、髪をとかした瞬間からだ。