憑依
89
「へえー、でも、すごく難しそやね。どなたかから教わったの」
富子は黙ってうなずいた。
「ねえ、どなたから教わったの。教えて、教えて」
富子はカクテルグラスを持ったまま、優子に向きなおった。
「内緒」
富子はその時のことを思いだした。
知事に同行してロサンゼルスに行ったときのことだった。三日目にラスベガスに立ち寄り、知事や議員らといっしょにカジノに入った。ブロンドを小ざっぱりと撫でつけた、長身で若手のカリフォルニア州下院議員と知り合った。
その自分より数歳年上のアメリカ人が話しかけてきて、富子はそれという気持ちもなく、世間話をしていた。そのうちに彼が、ルーレットでもやってみないかと誘ってきた。やってみたい気もするが、どうやって賭ければいいかわからないと、富子は答えた。
「目的によります」彼は言った。
「目的ってどういうことですか?」
「大きく儲けたいならば、一度に大きく賭けるべきです。でも、多くの場合は、悲しい結果になりますね」
「わたしは損をしないで、長く遊びたい。できれば、少し勝てるとうれしいわ」
「地道なんですね。それなら、賭け方の法則を教えましょう」
彼は高そうなジャケットを着ていた。靴もきれいに磨かれていた。ワインを左手に持って、実際にチップを置きながら、富子に順序よく説明してくれた。
まず元手を決める。百ドルから二百ドルぐらいまでとか、だいたいでいい。次に、引き際を決める。百ドルが元手ならば、たとえば、五十ドルを下回るまで負けるか、逆に百五十ドルを上回るまで勝つか、そのどちらかになったら引きあげることにしておく。その次に、一度に賭ける額を決める。仮にそれを五ドルに決めておく。ここで大切なのは、一回の賭け金を、一定の法則に従って、絶えず変化させるということだ。たとえば、負けるごとに、一ドルずつ増やしていくのである。つまり、一度負けたら、今度は六ドル賭ける。続けて負けたら七ドルに、さらに続けて負けたら八ドルに、という具合。勝ったらどうするかって? 勝ったら、いつでも、初めに決めた額、つまり、五ドルに戻す。あとは、気持ちを変えないでできるかどうかだけ。やってみればわかると思うけど、あまり損せずに、長く楽しめるはずだよ。
彼は、ワイン片手に、涼しい顔で、実際にやってみせて、わかりやすく教えてくれた。見ていると、精悍な顔つきのどこかにまだ子ども時代の名残があり、母性本能をくすぐられた。富子は彼に選んでもらったカクテルを飲んでいた。それが、生れて初めて飲んだドライ・マティーニだった。ドライ・マティーニは彼女の胸を焦がしはじめていた。
富子は黙ってうなずいた。
「ねえ、どなたから教わったの。教えて、教えて」
富子はカクテルグラスを持ったまま、優子に向きなおった。
「内緒」
富子はその時のことを思いだした。
知事に同行してロサンゼルスに行ったときのことだった。三日目にラスベガスに立ち寄り、知事や議員らといっしょにカジノに入った。ブロンドを小ざっぱりと撫でつけた、長身で若手のカリフォルニア州下院議員と知り合った。
その自分より数歳年上のアメリカ人が話しかけてきて、富子はそれという気持ちもなく、世間話をしていた。そのうちに彼が、ルーレットでもやってみないかと誘ってきた。やってみたい気もするが、どうやって賭ければいいかわからないと、富子は答えた。
「目的によります」彼は言った。
「目的ってどういうことですか?」
「大きく儲けたいならば、一度に大きく賭けるべきです。でも、多くの場合は、悲しい結果になりますね」
「わたしは損をしないで、長く遊びたい。できれば、少し勝てるとうれしいわ」
「地道なんですね。それなら、賭け方の法則を教えましょう」
彼は高そうなジャケットを着ていた。靴もきれいに磨かれていた。ワインを左手に持って、実際にチップを置きながら、富子に順序よく説明してくれた。
まず元手を決める。百ドルから二百ドルぐらいまでとか、だいたいでいい。次に、引き際を決める。百ドルが元手ならば、たとえば、五十ドルを下回るまで負けるか、逆に百五十ドルを上回るまで勝つか、そのどちらかになったら引きあげることにしておく。その次に、一度に賭ける額を決める。仮にそれを五ドルに決めておく。ここで大切なのは、一回の賭け金を、一定の法則に従って、絶えず変化させるということだ。たとえば、負けるごとに、一ドルずつ増やしていくのである。つまり、一度負けたら、今度は六ドル賭ける。続けて負けたら七ドルに、さらに続けて負けたら八ドルに、という具合。勝ったらどうするかって? 勝ったら、いつでも、初めに決めた額、つまり、五ドルに戻す。あとは、気持ちを変えないでできるかどうかだけ。やってみればわかると思うけど、あまり損せずに、長く楽しめるはずだよ。
彼は、ワイン片手に、涼しい顔で、実際にやってみせて、わかりやすく教えてくれた。見ていると、精悍な顔つきのどこかにまだ子ども時代の名残があり、母性本能をくすぐられた。富子は彼に選んでもらったカクテルを飲んでいた。それが、生れて初めて飲んだドライ・マティーニだった。ドライ・マティーニは彼女の胸を焦がしはじめていた。