憑依

96
旅行中に、いともやすやすと、豊雄に身を任せてしまった。これも富子には思いがけないことだった。満月のせいかもしれなかった。それまでの人生でたった二度の経験も満月の時だったから。でも違う。旅行の話に簡単に承諾したときのように、自分の中のなにかが、そうさせたのだ。
正式な式の前に、籍を入れて、豊雄といっしょに暮らすことになったのも、まったく同じ理由だった。豊雄といっしょにいるのはいやではない。むしろ、とても楽しく幸せだ。でも、豊雄とのことに関しては、なにもかもが自分の理性で決定できなくなっていた。けっして彼が強引なせいではない。むしろ、彼は富子の意見を求め、尊重してくれる。自分も意志を伝え、尊重してもらうことを望んでいる。しかし、言えないのだ。言おうとすると、なにかが口をふさぎ、別のことをしゃべっている。自分が自分ではなくなっていこうとしているようだ。
次第に彼女の心は恐怖で満たされていった。しかし、その恐怖を人に話すことはできない。このままでは大変なことになる。わたしだけではなく、豊雄さんも、ほかの皆も、取り返しのつかないひどい状況に直面することになるだろう。
なんとかしなくちゃ。いつか、小百合さんから少しだけ話してもらった、豊雄さんの前の奥さん、それから、豊雄さんのお兄さんのお嫁さん、その二人のようになってしまうかもしれない。どうすればいいのかわからない。自分の意識は次第に、鏡の中の世界に閉じこめられていってしまうような気がする。そうなる前に、なにか手を打たなくちゃ。わたしなりに何か考えてみた。うまくいくかどうかわからない。でも、たぶん、黄楊の櫛がわたしを封じ込めようとしているのだと思う。あれに邪魔されないで、なんとかして豊雄さんに話さなくちゃ。まだ、自分を完全に失っていないうちに、豊雄さんに助けを求めなくちゃ。優子ちゃんのようになったら、もうそんなこともできないのだもの。
「富子、行くぞ」
豊雄さんが下で呼んでいる。今日は優子ちゃんもついてくることはできない。
「はーい、今、行きます」
富子はいつも使っているバッグを神棚に上げた。急に気分が爽快になった。そして、昔使っていたバッグを持って、スカイラインの助手席に乗った。
「あれ? そのバッグどうしたの?」
フレアスカートとピンクの細いストライプが入ったニットシャツを着た富子は、見慣れない白いエナメルのバッグを左腕から外し、膝の上に乗せた。
「大学時代に使ってたものよ。たまには気分を変えてみるのもいいかなと思って」
「へえ、いいね、それ」
正式な式の前に、籍を入れて、豊雄といっしょに暮らすことになったのも、まったく同じ理由だった。豊雄といっしょにいるのはいやではない。むしろ、とても楽しく幸せだ。でも、豊雄とのことに関しては、なにもかもが自分の理性で決定できなくなっていた。けっして彼が強引なせいではない。むしろ、彼は富子の意見を求め、尊重してくれる。自分も意志を伝え、尊重してもらうことを望んでいる。しかし、言えないのだ。言おうとすると、なにかが口をふさぎ、別のことをしゃべっている。自分が自分ではなくなっていこうとしているようだ。
次第に彼女の心は恐怖で満たされていった。しかし、その恐怖を人に話すことはできない。このままでは大変なことになる。わたしだけではなく、豊雄さんも、ほかの皆も、取り返しのつかないひどい状況に直面することになるだろう。
なんとかしなくちゃ。いつか、小百合さんから少しだけ話してもらった、豊雄さんの前の奥さん、それから、豊雄さんのお兄さんのお嫁さん、その二人のようになってしまうかもしれない。どうすればいいのかわからない。自分の意識は次第に、鏡の中の世界に閉じこめられていってしまうような気がする。そうなる前に、なにか手を打たなくちゃ。わたしなりに何か考えてみた。うまくいくかどうかわからない。でも、たぶん、黄楊の櫛がわたしを封じ込めようとしているのだと思う。あれに邪魔されないで、なんとかして豊雄さんに話さなくちゃ。まだ、自分を完全に失っていないうちに、豊雄さんに助けを求めなくちゃ。優子ちゃんのようになったら、もうそんなこともできないのだもの。
「富子、行くぞ」
豊雄さんが下で呼んでいる。今日は優子ちゃんもついてくることはできない。
「はーい、今、行きます」
富子はいつも使っているバッグを神棚に上げた。急に気分が爽快になった。そして、昔使っていたバッグを持って、スカイラインの助手席に乗った。
「あれ? そのバッグどうしたの?」
フレアスカートとピンクの細いストライプが入ったニットシャツを着た富子は、見慣れない白いエナメルのバッグを左腕から外し、膝の上に乗せた。
「大学時代に使ってたものよ。たまには気分を変えてみるのもいいかなと思って」
「へえ、いいね、それ」