憑依

花
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 女性の持ち物に無頓着な豊雄は、彼女がバッグを変えた理由を、深く考えはしなかった。
 彼女が紅葉をみたいと言ったのだ。それで、平日に二人で休みを取って、ドライブをした。日曜まで待つと盛りを過ぎてしまうかもしれない。そう言うと、豊雄はなにも疑わずに無理して大学を休んでくれた。優子ちゃんは高校に出席しなければならない。話を出せば、彼女は高校を休んでしまうかもしれないから、突然決めて、突然豊雄にせがんだのだ。おとといの晩に彼に話したあと、きのうは一日中ひやひやしていた。優子ちゃんに気づかれてしまうのではないか? 優子ちゃんにはどんなことがあっても知られてはならない。それは、わたしにはわかる。彼女は、もう彼女ではない。少なくとも、ハワイに滞在していたときは、彼女の中にまだ半分ぐらい彼女が残っていたはずだ。しかし今は、はたして一割ほども残っているだろうか。彼女だけではない。わたしの方も時間の問題だ。わたしの意識はどんどん表面から遠ざかり、水の中にいるみたい。うまいこと、黄楊の櫛をバッグの中に入れたまま、優子ちゃん、正確には優子ちゃんに乗り移っている何者か、に気づかれずに、神棚に上げることができた。そうしたら、本当に久しぶりに、自分の意志のままにできる自分を取り戻すことができた。本当にがんばらなくては。もしも今日を逃したら、永久にチャンスは巡ってこないだろう。

 奥山はすっかり綾錦の様相を呈していた。カエデとイチョウに彩られた寺院を散策した。来迎院では声明の最中だった。大勢の僧侶が真剣な表情で声を合わせている姿に、過ぎゆく時を忘れてしまいそうだった。心が洗われるような尊い声の響きをうっとり聴きながら、自分が陥った状況から、なんとかして救いだしてほしいと、切に祈った。線香を上げ、仏の冥加あらんことを祈りながら、煙を身にまとわせ、音無の滝に向かった。杉林の間の道を十分ほど歩いた。渓流沿いの小道に分け入り、橋を渡った。さらに奥の方に音無の滝が勢いよく落ちているのが見えた。滝の間近に少し広い岩だらけの場所があった。富子は立ち止った。
 滝を無言で見つめる富子の背中を見ていた豊雄は、やがて平たい石に腰を下ろした。何を見るともなく、石の上やブナの太い幹に目をやるうちに、隣にある、腰掛けるのにちょうどよさそうな白い石の上に、イヤリングの片方を見つけた。サファイアかと思ったが、手のひらに乗せてみて、プラスチックだとわかった。富子も気づいて、のぞきこんだ。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日