憑依

花
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98

 「あら、どうしてこんなところに置いてあったのかしら? まだ新しいみたいだけど」
 「もしかして、滝の上から飛び降りる前に、外して置いた、恋人の形見とか?」
 「違うわよ。外さずに飛び降りることをなぜためらうのよ?」
 「最期のときに身につけておきたくなかったんだろう」
 「それなら、恋人に去られたときに捨ててしまうんじゃない?」
 「そうか……」豊雄は腕を組んで、考えこんだ。
 「観光客の誰かが、歩いているときに落としたのを、別の人が拾った。その人は、持ち主が近くにいたら気づくように、できるだけ目に止まるところに置こうと思って、この石を選んだ」弁護士は、法廷で審理に出席しているときのように、理路整然と説明した。
 「うん、その話の方がありそうだな」
 豊雄が言うと、富子は、横を向いて笑った。いつまでも笑っているので、さすがに豊雄は変に思った。
 「今日の富子、なんか変だよ。今日というより、おとといの晩、急に紅葉狩りにいきたいと言いだしたときから」
 富子は豊雄を正面から見据えた。目が真剣だった。
 「わたし、自分が思っていることを、なんでもこうしてあなたに言えるのがうれしいの。今日のわたしが言っていることはね、全部富子が、心の中で思っていることなのよ」
 豊雄は、その言い方に、なにか深い意味を感じ取った。富子はなにを言いだそうとしているのだろう。深刻な話だろうか?
 「わたし、霊感が強いの。あなたとあの家には、なにかとても強い気配を感じるわ」
 富子の目は怖いぐらいに豊雄の不安げな瞳の奥に食いいった。
 「わたし、初めてあなたに会ったとき、息が止まりそうだったの。磁場っていったらいいのかしら? なんていったらいいかわからないから、磁場っていうね。とにかく、あなたはそれが大きいの。」
 初対面のとき、こんな話をする女はいない。豊雄と仲睦まじくなったあとは、すでにあの櫛から発せられる魔力によって、自分の思いを告げることはできなくなっていた。富子は、やっと今日、この、きわめてプライベートでデリケートな話ができ、うれしくて仕方なかった。
 はやく、はやく、あのことを伝えなければ……。気持ちがはやって、どこから話し出せばいいかわからなくなっちゃったわ。ええい、どうにでもなれ。
 「わたしの磁場が乱されるの。そんなことって今までなかったわ。磁場が乱されると、わたし、先のことが見えなくなるの」
 「先のことって?」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日