憑依

花
prev

103

 しかし、彼は、筵をめくって、そこに横たわっているものを確かめることができなかった。信じられないのに、なぜかもう泣いていた。実感できないのに、涙がはらはら落ちては、またあふれてきた。ずっと付き添い、背中に気配が感じられ、膝頭がほとんど密着しているはずの、柔和な女性の顔を見たくなった。ところが、振り向いたとたんに、その人の気配はすっと消えた。彼は、あちらこちらに目をやって、女を探した。不思議なことに、どの女でもなかった。豊雄は、大人たちに尋ねた。すると、お茶をくれたり、世話を焼いたりしたのはこの小母ちゃんだよと教えられた。真っ黒で、小さく細い、中年女性だった。違う、違うと言い張ったが、おおかた夢でも見たのだろうと、皆に笑われ、沙汰やみになってしまった。

 そのことを、ふいに豊雄は思い出したのだ。いったいあの女の人は何者だったのだろう? 不思議だった。それでも、あのときは、友人の葬儀が終わると、日常がいろいろなことを、彼の意識から遠のけた。完全に忘れてしまったかというと、そうでもない。意識のどこかに残り続けていた。
 はじめにはっきり思い出したのは、夜の国道を、無灯火の自転車で横切ったときだった。
 長続きしなかったが、少しだけ豊雄の言うことを聞いてくれた後輩が、はじめて手紙を学校で手渡してくれた日のことだった。腰近くまである髪が、光に反射して揺れる、あまり目立たない、セーラー服のよく似合う、おとなしい少女だった。歌の中によくある情景で、自分にもそういうことがいつか起こらないかと憧れていたことが、現実になった。彼女に言われるがまま、校庭のポプラがよく見えるベンチまで、彼女のあとをついていった。立ち止まって振り向きざまに、純白の封筒をさしだして、顔を傾けて、半開きの口でほほえんだ。クラスと名前と趣味、好きな歌が書かれているだけだった。でも、豊雄はこれから起こることをあれこれ想像して、そのあとわけのわからないことばかりして一日を過ごした。砂浜で寝転がったり、サーフボードで暗くなるまで波を求めたりした。そろそろ帰ろうかと思ったら、もうとっぷり日が暮れていた。帰宅時間はかなり厳しく言われているので、自転車を思いっきり飛ばした。有頂天になっていたので、最近覚えた歌を、歌い散らしていた。国道の信号が赤なのに気づかなかった。途中で、右方向に気配を感じた。それがかなり速度のでている自動車だとはっきりわかったのは、渡り終えるころだった。車のブレーキの音が聞こえたときはもう、豊雄は反対側の信号機を超えていた。彼の足はわなわなとふるえた。心臓の鼓動が高鳴った。あと1秒、いや、あと0.5秒遅かったら、スピードを出しすぎていたあの車に轢かれて死んでいただろう。そのとき彼は思い出した。
「あなたは、強いものに守られているわ。よほど無茶なことをしない限り、どんなことがあっても、寿命以外では死なないわ」
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日