憑依

花
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 不思議な目で語りかけた、あの柔和な海女さんの言葉であった。
 彼は、その夜、ふとんの中で、海で死にかけた日のことを、よく思いだそうとした。自分を守ってくれているのは誰かときいたとき、謎の女性が「すみよし」と言ったことが、現実ではなく、夢の中の出来事だったような気がする。仮にその人が「住吉様」と言ったとしても、実際少しも不思議ではなかった。なぜなら、住吉大社は漁師たちの守りの神として、広く信仰を集めているからだ。大宅家でも住吉様を神棚に祀っている。自分を助けてくれた海女たちも同じであろう。しかし、あのときの女の口ぶりは、そういうありきたりの言葉で、見ず知らずの少年を慰めているものとはまったく違っていた。少なくとも彼にはそう思えた。人は誰でも心のどこかで自分を特別な存在だと思っている。豊雄にもあるその意識がこの記憶をつくったのかもしれない。本当は、女は誰にでもいうありきたりの慰めの言葉をかけただけなのに、非常時であったことと、女が忽然と姿を隠したように見えたことが、このメッセージが特別であったと、豊雄に思いこませたのかもしれなかった。
 その夜の、死との隣り合わせ経験によって、舟で見た女と、そのメッセージと、住吉様は、豊雄の中でますます神格化された。
 その後も彼は何度か、間一髪という体験をした。そして、そのたびごとに女のことを思い出した。

 豊雄は、大原の清らかな流れのほとりで、富子にこの話をした。富子はあまり不思議がらなかった。
 「磁場の正体は住吉様なのね。その海女さんは、住吉の神の化身よ。間違いないわ。あなたは、住吉の神様に助けてもらえるかもしれない。それから、真名美さんに取りついた魔物から守ってくれた西田住職にもきっと助けてもらえるでしょうね」
 富子は急に暗い表情になった。豊雄が心配して声をかけると、また話を続けた。
 「わたしはだめかもしれない。わたしを守ってくれるものは、今のわたしにはよくわからない。それでわたしは怖くなって、あなたにこのことを伝えるために、ここへ連れてきたの。小さいころ両親に連れてきてもらって、音無の滝を見たとき、とても気持ちがよくなって、頭の中がすっきりしたの。それ以来、何か悩みがあると、一人でバスに乗って、ここまで来たの」
 富子はまっすぐ顔を上げ、滝の流れに目をやった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日