憑依
105
「わたしにとって、この滝は、守り神かもしれない。あなたの家にいて、優子ちゃんといっしょにいると、わたしの意志は、水槽の中にとじこめられた魚のように、外界と遮断されてしまうみたいなの。本当に言いたいことを言えずに、ぱくぱく口を動かしているだけ。優子ちゃんから離れ、櫛を封印して、この滝のところへ来たら、わたしは言いたいことをすべて言えるようになったの。あなた、わたしの言ってること、わかる?」
豊雄はすべてわかった。真名美の苦しみも今ならわかる。近くになにかいる。それは、ある道具を媒介にして、身近な人たちに乗り移る。二条家の婚礼道具を持っていたために、真名美と詩絵はそいつに乗り移られた。優子ちゃんも櫛を使ううちに、そいつに支配された。そして、富子も少しずつ支配されようとしている。大変なことだ。すぐになんとかしなければ。
豊雄は、住吉大社に行けば、ひょっとして救ってもらえるのかもしれないと期待した。しかし、いきなりこんなことを説明してもわかってもらえないだろう。頼めるのは、事情がわかっている西田和尚しかいない。
豊雄は富子に提案した。富子も同意した。
立ちあがって、歩き出そうとすると、富子が引きとめた。
「待って」
富子は滝に向かってまっすぐ歩いて、淵のほとりでしゃがみこんだ。彼女は怖かった。この安全な場所を一度去ったら、もう二度と元には戻れないかもしれない。彼女はバッグから香水の小壜を取り出し、半分以上残っている中身を淵に空けた。そして、壜を手に持ちながら水に沈め、また持ち上げた。壜のふたを閉めると、振り向いて豊雄に渡した。
「わたしは、これから起こることがとても心配なの。わたしの助けが必要になったら、この水を思い出してね。」
涙を流しながら必死に言う富子に、豊雄は強く頷いた。
それからすぐ、西田のいる寺まで車を飛ばした。西田和尚は三十日の山籠りをしていて連絡が取れないと、奥さんが残念そうに言った。幸い三日後に下山するから、そうしたら、すぐ連絡を入れますと言われ、とりあえずお礼を言った。
わかってもらえないかもしれないけど、住吉大社に頼みこもうと決心して、アクセルをふかした。そのうちに富子は右手を、ギアを握る豊雄の左腕に置いて、軽くつかんだ。ちょっとうつむき加減にして、そのままの姿勢で、黙りこくっていた。豊雄は富子の様子がなんとなく気になったが、それ以上心配する余裕はなかった。心は、住吉の神のことでいっぱいだった。
豊雄はすべてわかった。真名美の苦しみも今ならわかる。近くになにかいる。それは、ある道具を媒介にして、身近な人たちに乗り移る。二条家の婚礼道具を持っていたために、真名美と詩絵はそいつに乗り移られた。優子ちゃんも櫛を使ううちに、そいつに支配された。そして、富子も少しずつ支配されようとしている。大変なことだ。すぐになんとかしなければ。
豊雄は、住吉大社に行けば、ひょっとして救ってもらえるのかもしれないと期待した。しかし、いきなりこんなことを説明してもわかってもらえないだろう。頼めるのは、事情がわかっている西田和尚しかいない。
豊雄は富子に提案した。富子も同意した。
立ちあがって、歩き出そうとすると、富子が引きとめた。
「待って」
富子は滝に向かってまっすぐ歩いて、淵のほとりでしゃがみこんだ。彼女は怖かった。この安全な場所を一度去ったら、もう二度と元には戻れないかもしれない。彼女はバッグから香水の小壜を取り出し、半分以上残っている中身を淵に空けた。そして、壜を手に持ちながら水に沈め、また持ち上げた。壜のふたを閉めると、振り向いて豊雄に渡した。
「わたしは、これから起こることがとても心配なの。わたしの助けが必要になったら、この水を思い出してね。」
涙を流しながら必死に言う富子に、豊雄は強く頷いた。
それからすぐ、西田のいる寺まで車を飛ばした。西田和尚は三十日の山籠りをしていて連絡が取れないと、奥さんが残念そうに言った。幸い三日後に下山するから、そうしたら、すぐ連絡を入れますと言われ、とりあえずお礼を言った。
わかってもらえないかもしれないけど、住吉大社に頼みこもうと決心して、アクセルをふかした。そのうちに富子は右手を、ギアを握る豊雄の左腕に置いて、軽くつかんだ。ちょっとうつむき加減にして、そのままの姿勢で、黙りこくっていた。豊雄は富子の様子がなんとなく気になったが、それ以上心配する余裕はなかった。心は、住吉の神のことでいっぱいだった。