憑依

花
prev

113

 佐久間継夫は、出かけに聞いた妻の言葉を思い出していた。
「地粉がたくさん手に入ったから、今晩はうどんを打っておくわ」
 妻の打つうどんはうまい。にんじんとごぼうをてんぷらにしておくとも言っていた。これも継夫の好物だ。勤務時間も終わるし、こんな日はさっさと家に帰るに限ると思っていた矢先に、上から指令が出た。
「なんだかわかれへんが、若い女を人質に立てこもっとるらしい。えらく凶暴な二人組で、いつ家の者に危害が及んでもおかしくないということや。状況によって、府警か警視庁のどちらかが指揮を執ることになる。所轄の人間を使って、まずは詳細を確かめてくれ。おれも上層部と打ち合わせをしたらすぐに駆けつける」
 継夫は、内山孝三警部から指示を受け、自分の車にサイレンをつけて、同僚とふたりで、府警を飛びでた。ちくしょう! うどん食べるの、何時になるやろ?

 平井屋に到着した。伝統的な町屋の佇(たたず)まいは、事件のことを忘れさせるほど静まっている。白壁にべんがら格子が瀟洒な印象を与えた。二階に虫籠窓(むしこまど)を残している住宅は今ではもうそれほど多くはないはずだ。
 そっと格子をあけて中に入り、継夫たちは二階にあがる。外に避難せず、犯人たちが立てこもっている部屋からそう離れていない部屋に家人が集まっているのであきれた。思考が麻痺しているのだ。幸い犯人たちに気づかれないように、階下に避難させることができた。
 継夫は拳銃を構えて、部屋の前に立った。既に十人近くの捜査員が家の要所要所に配置されていた。
「おまえら、いったい何者だ? 目的はなんだ?」
 同じようなことをかなり大きな声で何度か繰り返したが、返事はない。
「警部、突入していいですか?」
 もう内山警部も到着していた。とりあえず府警が指揮を執ることになったようだ。パトカーの外で無線を握っているのが、二階の窓から見える。
「ちょっと待て、ふたりの女性を確認したか?」
「確認してみます」
「気をつけろよ」
 継夫ともうひとりの捜査員が、ひらいている襖にゆっくり近づいた。部屋の奥を見ることができた。ふたりの若い女がぐったりと横たわっている。その付近には誰もいないと思われる。思いきって、襖の中に頭を突っ込んでみた。女の気配以外には、まったくなんの気配も感じられない。
「犯人はいません。女性がふたり、倒れているだけです。救出に向かっていいですか」
 しばらく返事はなかった。しかし、警部は覚悟を決めた。
「行け。人質をなんとしてでも無事に保護しろ」
「了解」
 継夫は左右の部下に指示をした。
「続け」
 各人、サーチライトを手に室内に踏み込んだ。
 部屋の中は荒らされていた。机の上には女子高生の持ち物が散乱している。壁には映画俳優のポスターが貼られている。ベッドの枕もとにはテディーベアが座っている。衣装ダンスと押し入れは閉めてある。
 継夫は押し入れとタンスを指差した。部下は素早く近づき中をあけた。継夫は女たちに近づく。ふたりとも類いまれな美人だ。
 顔を近づけると、呼気が感じられた。呼び掛けるが応答はない。気を失っているようだ。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日