憑依

花
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118

 雨脚はさらに強まっていた。テントの屋根の周囲からよじれた紐のような雨水が幾筋も流れていた。平井屋の者たちは体を縮めて暗い表情でパイプ椅子に座っていた。
 決断に迫られた豊雄は考えさせてほしいと告げてから、ぼんやりテントの下の家族や従業員を眺めていた。自分の心がふらふらしているせいで、いったいどれだけの人間を不幸にしてきたか。菜摘、両親、兄、姉、菜摘の両親、叔父、叔母、小百合さん、富子、優子ちゃん、賢素、平井屋のみなさん。本当に申し訳なさでいっぱいだ。
 豊雄は傘をさしたまま涙を流した。
 意志薄弱な自分の心を永遠に固めることが可能なのかと思った。しかし、突然、天啓を受けるというのだろうか、気持ちが固まっていくのが感じられた。不思議なもので、そういう心境になるときはわかる。だめなときにも、初めからなんとなくそれがわかるのと同じようにして。自分の命さえ惜しくないという気持ちだった。自分の命を投げだしてみなが助かるのであれば、喜んで命を投げだそう。そうつぶやいてみた。そうしたら、迷いが消えた。目の前が澄んでいく。
 豊雄は傘を揺らさずに西山和尚のうしろ姿に近寄った。
「和尚、決心がつきました。ぼくのすべきことを指図してください」
 西田は振り返った。西田は言葉で確認しなかった。豊雄の目を見るだけでじゅうぶんだった。
「心が入れ替わったあなたがあの物らの前に立てば、あの物らは手だしできまい。力の源泉はすべてあなたの心にあった。あなたの心が、菜摘さんと真名美さんの霊をこの世にさすらわせ、今こうして、富子さんと優子さんの体を依(よ)り代(しろ)にして、罪のない人々をあやめさせたのだ」
 豊雄は涙を幾筋も流しながら、しかしまっすぐ和尚の目を見て謹聴していた。
「あの物らの前に立ち、法衣でこしらえたこのずだ袋をかぶせるのです。霊験あらたかな木天蓼(またたび)も用意してあります。これをあの物らに与えると、もとの猫の姿に戻りましょう。そのときに、ずだ袋を頭からかぶせて、完全に中に押し込めたら、仏前で清めたこの紐で袋の口をくくるのです。あの物らはあなたを見ると油断します。あなたの心が変わったことに気づかず寄ってくるでしょう。あなた以外の人では警戒してしまい、成就は困難です。悪霊を鎮めるのはあなたしかいないのです。まずはあなたの心を、一点の曇りもないくらいに、清らかにしなければなりません」
 西田は太い数珠を鳴らして読経を始めた。ざあっという雨音の中で豊雄は静かに読経を聴いていた。

 障子の音を極力立てないように横に滑らした。平井屋の建具はさすがに上等だった。音はまったくしなかった。部屋の中は真新しい畳の匂いがした。ぼとっ、ぼとっと、血が垂れた。由緒ある呉服屋を汚して申し訳ないと考える余裕は、現在の今泉にはなかった。
「石田優子」と名乗る女に違和感を感じたとき、二階からほかの女の叫び声がした。今泉は、「石田優子」を外に出すという任務に当たることにして、高見と上田を二階にやった。応援を呼んだ。警部補に状況を説明していると、女は笑いながら自分に近寄ってきた。本能が危険を感じとっていた。そうだ、あのときに撃ってしまえばよかったんだ。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日