憑依

119
今泉は苦痛に耐えきれず、畳の上に倒れた。腹ばいになって押し入れに向かった。隠れてもほとんどなんの効果もないということはわかりきっていたが、それでもやはり身を潜められる場所がほしかった。押し入れまでの距離を目測した。永遠の長さがあるみたいだった。次々にあふれてくる血が不安を増幅させた。傷口がどうなっているかわからない。ただ、喉から胸にかけて焼けるような痛みがあった。女の顔が近づいて、それからよくわからない。あれは虎だったんだろうか。闇の中、大きな獣のうなり声がした。太い足で押さえ込まれ、身動きができなかった。耳もとまで裂けた口が近づき、鋭い牙が喉に突き刺さった。しかし、外から応援が入ってきたので、あれは自分から離れ、玄関に走っていった。あと一秒遅かったら、完全に喉と胸の肉はえぐり取られていただろう。傷は思っているほど深くないのかもしれない。血がとまりかけている。
それから、とにかく安全な場所に行こうと思った。(この家の中に安全な場所などあるのか?)足は勝手に二階に向かっていた。奥は何者かが立て籠もっている部屋だと聞いていたから、中間にある広い部屋を選んだ。廊下にはなにもなかった。奥の部屋の入り口はわずかにひらいていたが、中は見えなかった。直感的に奥の部屋に気配が感じられた。高見と上田が入っていったはずだ。本来なら自分もふたりの応援をしなければならない。しかし、効果はないだろう、としか思えなかった。むざむざ全滅するよりは、少しでも安全な場所を見つけて、外と連絡を取り、いい方法を考えたほうがいい。(いい方法なんてあるのか?)
出血が収まったので、身を起こしてみた。激痛が走ったが、四つん這(ば)いで歩けそうだった。押し入れの前に少量の血痕があることに気づいた。今泉の胸が高鳴った。ひょっとして、おれみたいにここに逃げ込んだ警官ではないだろうか。京都府警かもしれない。今泉は押し入れの前にしゃがみこんで襖を叩いた。
「どなたかいらっしゃいますか。京都府警のかたですか。わたしは警視庁の今泉です」
襖がさっとひらいた。ぼっとほのかな灯りに周囲が浮かびあがった。
「京都府警の佐久間です。どうぞ、中に」関西のアクセントだった。今泉が入ると、襖がさっと閉まった。
今泉は押し入れの布団に身を投げだした。こんなに柔らかい布団で寝たことはない。それを台無しにしてしまうだろうなあ、と気が咎めた。しかし、柔らかくいい匂いのする布団を無上に快く感じた。
今泉と佐久間のどちらも、自分の味方ができたので、急に心強くなった。
自己紹介したあと、自分たちが置かれている状況について話し合った。
「それでは、佐久間さん以外の人は、みんなやられたんですか」
「そうです」佐久間の憔悴しきった顔が、毛布でくるんで極力抑えたサーチライトの灯りに照らされる。「何人かいっしょにあのばけもんに襲われましたが、わたしの傷は浅かったのです。わたしは死んだふりをしていました。見つかる寸前に、府警の応援が突入し、この奥の部屋に入ったとき、ばけもんはまたしおらしい女の姿に化けました。応援の者が、わたしたちのときと同じように、すっかり油断すると、また、虎みたいなばけもんになって、襲いかかりました。わたしはその騒ぎの渦中、部屋を抜けだして、この中に入ったんです」
それから、とにかく安全な場所に行こうと思った。(この家の中に安全な場所などあるのか?)足は勝手に二階に向かっていた。奥は何者かが立て籠もっている部屋だと聞いていたから、中間にある広い部屋を選んだ。廊下にはなにもなかった。奥の部屋の入り口はわずかにひらいていたが、中は見えなかった。直感的に奥の部屋に気配が感じられた。高見と上田が入っていったはずだ。本来なら自分もふたりの応援をしなければならない。しかし、効果はないだろう、としか思えなかった。むざむざ全滅するよりは、少しでも安全な場所を見つけて、外と連絡を取り、いい方法を考えたほうがいい。(いい方法なんてあるのか?)
出血が収まったので、身を起こしてみた。激痛が走ったが、四つん這(ば)いで歩けそうだった。押し入れの前に少量の血痕があることに気づいた。今泉の胸が高鳴った。ひょっとして、おれみたいにここに逃げ込んだ警官ではないだろうか。京都府警かもしれない。今泉は押し入れの前にしゃがみこんで襖を叩いた。
「どなたかいらっしゃいますか。京都府警のかたですか。わたしは警視庁の今泉です」
襖がさっとひらいた。ぼっとほのかな灯りに周囲が浮かびあがった。
「京都府警の佐久間です。どうぞ、中に」関西のアクセントだった。今泉が入ると、襖がさっと閉まった。
今泉は押し入れの布団に身を投げだした。こんなに柔らかい布団で寝たことはない。それを台無しにしてしまうだろうなあ、と気が咎めた。しかし、柔らかくいい匂いのする布団を無上に快く感じた。
今泉と佐久間のどちらも、自分の味方ができたので、急に心強くなった。
自己紹介したあと、自分たちが置かれている状況について話し合った。
「それでは、佐久間さん以外の人は、みんなやられたんですか」
「そうです」佐久間の憔悴しきった顔が、毛布でくるんで極力抑えたサーチライトの灯りに照らされる。「何人かいっしょにあのばけもんに襲われましたが、わたしの傷は浅かったのです。わたしは死んだふりをしていました。見つかる寸前に、府警の応援が突入し、この奥の部屋に入ったとき、ばけもんはまたしおらしい女の姿に化けました。応援の者が、わたしたちのときと同じように、すっかり油断すると、また、虎みたいなばけもんになって、襲いかかりました。わたしはその騒ぎの渦中、部屋を抜けだして、この中に入ったんです」