憑依

花
prev

122

 押し入れの中で、今泉と佐久間は極力音を立てずにいた。廊下のほうで物音がするたびに緊張する。
「みしっ」
 廊下で木がしなるような音がした。ふたりは体全体を耳にして、息を潜めていた。沈黙していたのはほんの十秒だったが、一分ぐらいに感じた。佐久間が沈黙を破った。
「さっきの音……」
「ええ、廊下のほうでしたよね。なんでもなかったようですね」
「ええ……」
 そのとき、無線の音がひどく大きく鳴りだした。いや、彼らにはそう感じられた。聞かれそうだ、とひやひやした。さっき、ふたりで会話したり、無線で警部補と話しあったりしたときとは状況が違ってしまったのだ。さっきは階下は騒がしかった。しかし、やがてなんの物音もしなくなっていた。今は家の中が静まりきっている。
「はい、今泉です」ひそひそ声を出した。
 その空気を田村も感じ取った。
「おまえにはきついことだろうが、奥さんたちを撃たないでくれるか」ひそひそ声が聞こえてきた。今泉の頭は真っ白になった。
「警部補、それは自分たちに死ねということですか」
「そういうわけではないが、だんなさんの話を聞いたら、やむをえないという気になってしまってな」
「一応、自分たちにも聞かせてください」
「もう何年もつきまとっている霊が奥さんたちに取り憑いたらしいんだ。奥さんたちから霊が離れれば、また、もとに戻るそうなんだ。今、だんなさんはお坊さんといっしょにそっちへ行く」
「しかし、取り憑かれたにせよなんにせよ、錯乱状態になって我々に襲いかかってきた人間に対して攻撃を加えても、問題はないはずですし、こんな危険な場面に民間人を立ち会わせるほうが、問題になるんじゃないんですか」
「おまえの言うことはもっともだが、霊を鎮めればもとに戻ると思っているだんなさんがちょっと不憫に思えてな」
「警部補はだんなさんに除霊ができると思っているんですか」
「実は今までのいきさつを聞いたんだ。一年ほど前、死体に取り憑いてだんなさんの前に現われ、なんの疑いもなく結婚してしまったらしい。お坊さんが見抜いて霊が取り除いたそうだ。そのとたんに元通りの死体になったということだ。今の奥さんは、ごく最近に結婚したそうだ。とにかくそういうことなんだ。つまり、死体にも取り憑くということは、奥さんたちを殺しても解決しないということじゃないか」
「根本的な問題にもどりますけど、この話は本当なんでしょうか。だんなさんはまともなかたですか。警部補は本当に信じているんですか」
「じゃあ、きくが、おまえが化け物に襲われたというのは本当なのか。おまえの頭は正常な状態なのか」
「……」今泉は観念した。「わかりました。なんとか奥さんたちを射撃しないように努力してみます」
「今泉」
「はい」
「本当にやばいと思ったら、撃ってもかまわない」
「無茶苦茶言いますね」
「いや、だんなさんがそうおっしゃったんだ」
 今泉はその意味をよく咀嚼してから言った。「だんなさんの気持ちが伝わってきました。ありがたく承ったとお伝えください」
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日