憑依

花
prev

123

 佐久間の緊張した声が空気を震わせた。
「今泉さん。聞こえませんでしたか」
「どうしたんですか」
「また、みしい、って聞こえたような気がするんです」
「来たかな」
 無線機を通じて今泉の不安が田村に伝わってきた。
「どうした」
「廊下から音がするようなんです。いよいよかもしれません。いったん無線は切ります。なにかあったらすぐにスイッチを入れますので」
「わかった。こちらも用意ができたから、すぐ中に入る。なんとか耐えてくれ」
 また、音のない闇になった。しかし、ふたりはなにかを感じ取っていた。襖の向こうになにかがいる。今泉はもう少しの辛抱だと思った。このままじっとしていれば、超現実的な力で手を貸してくれる人たちがやってくる。――超現実的な力。今の彼には、それが拳銃よりなによりも頼もしく感じられた。彼は、聴覚の精度を高めるように、耳に神経を集中させて、もっと遠くの気配をとらえようとした。もう玄関あたりから音がするころではないのか。しかし、なんの物音もなかった。
 今泉が廊下の音は気のせいだったと思ったとき、いきなり間近で女の美しい声がした。
「もしもし、どなたか、なかにいらっしゃるのですか」
 今泉の鼓動が速まった。今はやりのハードロックのリズムだと、なぜかどうでもいいことが頭に浮かんだ。ついに来たぞ。
「わたし、大宅豊雄の妻で富子と申します」
 ドク、ドク、ドク、と鼓動がはっきり聞こえた。心音とはこんなに大きいものだったのかと、今泉も佐久間も驚いていた。
「わたし、今、意識が戻ったところで、状況がよくわからないのですが、大変なことになっているようですね」
 ふたりとも返事をしなかった。
「あの、あなたの思っていらっしゃることはよくわかっています。お願いです、わたしの言葉には、いっさいお答えなさらないでください。もう、聞いているかもしれませんが、わたしは魔物に取り憑かれています。取り憑かれたとき、主人に襲いかかりました。実は、その前に、予感があったものですから、主人と大原の音無の滝に出かけ、香水の壜に水を汲みました。昔から、あの滝が自分を守ってくれていると思っているのです。その効果は確かにありました。主人に襲いかかったとき、わたしは、ほんの一瞬正気に戻ったので、渡しておいたその壜の水を、自分にかけるように言いました。主人がそのとおりにすると、化け物になったわたしは、しばらくのあいだ、自分の意志で手足を使えました。そこで、もう一頭の化け猫の目を盗んで、主人を逃がしました。しかし、それからのことはまったく覚えていないのです。今、奥の部屋で意識が戻りました。奥の部屋は凄惨な状況でした。警察の方々はみんなかみ殺されていました。わたしは、なぜ意識が戻ったのか考えました。おそらく主人と、わたしたちを救おうとしてくださっている、尊い西田和尚様が、近くで霊を清めているのだと思います。奥の部屋からここにやってきたのは、なぜだかわかりません。気がついたら、押し入れの襖の前に立っていました。どうやら、また意識が遠のいていきそうです。そうしたらわたしは化け物に戻り、あなたを襲うでしょう。わたしは覚悟を決めました。あなたが拳銃をお持ちでしたら、どうかわたしを、いや、恐ろしい化け猫を撃ち殺してください。お願いです。早くしないと、わたしはあなたをかみ殺すでしょう。後生です。早くしてください」
 富子の声は最後のほうは興奮で甲高くなっていった。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日