憑依

花
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 佐久間は暗闇の中で、自分の前に座っている今泉の様子を窺った。今泉はまったく動こうとしなかった。
「今泉さん、このかたの言うとおりにしましょう」
「しかし、打っても効果がないと思うのですが」今泉は、このきれいな声の持ち主を、どうしても撃つ気にはならなかった。
「今泉さん!」佐久間は余程銃撃してしまおうと思ったが、今泉になんの影響も与えずに声のする方向へ撃つのは難しいと思いためらっていたので、自分の前にいる今泉になんとしても射撃してほしかった。
「早く、早く、ああ、ああ、ああああ――」
 富子は、あえぐような声になり、しまいには絶叫した。その高い声が、獣の咆吼に変わったとき、ものすごい音がして、襖が破れた。佐久間はサーチライトを当てた。大きな猫の腕が向かってくる。佐久間までは届かなかったが、今泉は顔をのけぞらしていた。爪が顔を引き裂いたのかもしれない。佐久間は銃撃した。化け猫の腕がもう一度今泉の顔を直撃した。爪が左顔面に突き刺さり、そのまま今泉は宙づりになった。佐久間の撃った弾は今泉の腹部にめりこんだ。だらりと化け猫の足先にぶらさがり、今泉は痛撃を繰り返した。佐久間がもう一度撃とうとすると、化け猫が腕を左右に強く振ったので、今泉の体が離れ、佐久間に倒れかかった。拳銃はその衝撃でどこかへはじき飛ばされた。佐久間は機敏に動いた。化け猫の爪をひらりとかわし、布団を前に押しやった。うまい具合に今泉の体がつっかえ棒となり、縦になった布団で襖にあいた穴をふさぐことができた。今泉に触れるとぐにゃっとした感触がした。もうだめだと思った。今泉のことはあきらめて、佐久間は布団をもう一枚、縦に重ねた。化け猫の腕が当たったが、こういう柔らかいものだと、かえって思うようにならないみたいだった。次々に布団を重ねていった。ある限りの布団でバリケードができると、京壁に肩を押しつけて、腰と足で布団を支え、化け猫の突進に耐えた。重みのある体が何度も圧迫するうちに、支えていた下半身も崩れていった。今や完全に、布団に押しつぶされ身動きの取れない、無抵抗の状態になりはててしまった。
 大猫の状態だと頭脳は獣並みになるらしい。布団を一枚ずつはげば、獲物にすぐたどりつくのに、大猫ではそう考えられないのだ。破れた襖から出ている布団にひたすらかじりついている。その感覚は伝わってくるが、大猫が肉薄する感じはいっこうに表れない。佐久間はほんの少しだが気が楽になった。しかし、大猫もじきに気づくだろう。そのときがいつまでもやってこないことを祈った。爪で布団をばりばりにしたり、綿をちぎったりしている。いちばん上の布団の綿を全部出してしまったようだ。二枚目をくわえたのか、布団ごと持って行かれるような感覚があった。汗がわきでた。暑さと恐怖で既に汗まみれだ。さらに汗が流れ、口や目に入った。脇もびっしょりになっている。大猫は布団を持っていこうとしたが、襖につかえた。穴がそれほど大きくなかったのだ。
 佐久間の体勢は意志ではどうにもならなかった。押し入れの床に背中が密着し、頭は京壁に押しつけられていた。壁からはがれた粉末が髪の中に大量に入りこんでいた。なにかの加減で目にも入ったようだった。
 離れたところから獣の咆吼と階段を駆けあがる音がした。もう一頭が来たのだ。すでに襖の前にいるようだ。突進してきた。布団にすごい圧力がかかった。首の骨がボキッと音を立てた。頭の横と肩が京壁に押しつけられた。首は別状なさそうだ。上の布団からぽとぽとと生温かい液体が垂れてきた。鼻や口に入ってきた。鉄の味がする。今入ってきた大猫かさっきまでの大猫かのどちらかが、また布団に体当たりした。その拍子に、重みのあるものが体にかぶさった。どういう加減だかわからないが、真上の布団にはさまっていたらしい今泉の体が、今の衝撃で落ちてきたのだ。感触から想像して、どうやら彼の唇がわたしの頬に押しつけられているらしい。大猫の爪でえぐり取られた顔面から大量の出血があるみたいだ。どんどんあふれてくる温かい血液が、全部自分の鼻の穴のほうへ流れてくる。息ができないので、ちょっと横を向き、口をひらいて、気をつけながら呼吸した。呼吸しているあいだにも血が口に流れこむので、クロールをしているときの息継ぎのようにしなければならなかった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日