憑依

花
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「豊雄さん、急いで木天蓼(またたび)を投げてください」
 西田和尚の、破邪の勇気を奮い立たせるような声で、豊雄はすぐさま我を取り戻し、袋の中の木天蓼を菜摘の前に投げた。菜摘に異変が起こった。表情では拒んでも体ではあらがえない人のように、身もだえしながら木天蓼にすり寄っていく。仰向けになって右へ左へと体を反らせる。胸にはまだナイフが見え、断末魔に苦しむようでもあった。菜摘はついにあきらめの表情を見せた。猫になるのだなと豊雄にもわかった。
「わたしの最後のお願いよ」
 警戒もしたが、かえって素直な言葉のようにも感じられた。菜摘の霊は袋の中に吸いこまれるしかないのだから、そうとって問題ないような気がしたのである。
「あなたはすっかり忘れている。ロケットを大切にしてほしかったの」
 それだけであった。余韻もなく、いきなりシャム猫に縮んでいた。猫は木天蓼(またたび)に体をこすりつけて、くるくる回転した。
「豊雄さん、今です。その猫を袋の中に入れるのです」
 彼はそのとおりにした。まったく拍子抜けするくらいにたやすいことだった。しかし、彼はなにか物足りなさも同時に感じた。その理由は次の瞬間、はっきりわかった。白猫はどこへ行ったのだろう?
 彼が見まわすと、西田和尚もそれに気づいた。
 袋を抱えて廊下に出る。窓があいていて、さわやかな風が頬を撫でた。いつのまにか雨がやんでいた。窓からまばゆい月光がさしていた。青白い光の中心に、富子と優子が横たわっていた。
「富子」
 月に照らされて、この世のものではないような青い感じがした。しかし、揺り起こすと意識が戻り、もとの富子であった。優子も気がついた。
 西田和尚は優子をしばらく見つめて、窓に視線を移した。
「逃げたようです」
 豊雄も窓の外を眺めた。
「優子ちゃんは大丈夫でしょうか」
 西田は強い目で豊雄を見た。
「わたしの見たところでは大丈夫のようですが、このあと早めに対応を取ったほうがいいでしょう。まずは、明日その袋の中の猫をわたしの寺で供養しましょう。富子さんと優子さんの禊(みそぎ)も本堂で行います。ここでよりも、本堂で行ったほうが効果的なのです」
 そう言いながらも、西田はふたりを楽な場所に座らせて、簡単にお清めをした。捜査員たちはなにも言わなかった。むしろ、西田の低く太い読経をありがたがった。嵐のあとの冷ややかな夜の空気に、開け放した窓から、線香の煙がまっすぐ立ちのぼった。

 時間は若干溯(さかのぼ)る。
 佐久間の頭からはすでに恐怖心は消えていた。狂気に近い心情の中で、もうどうでもいいという気持ちが生まれてきたのだ。息がほとんどできない。また大猫が体当たりしてきた。途端に口の中のものを大半のみ込んでしまった。文字どおり血なまぐさい匂いで吐き気を催した。またすぐ、上からこぼれ落ちる血液が口中に満たされる。気管に入って、ひどくむせる。むせながら、血を飲む。鼻も気管も喉もふさがったようだ。苦しい。布団をかきわけ、外へ出て、新鮮な空気が吸いたい。頭がぼうっとしてきた。呼吸が困難になると、危険が危険でなくなるみたいだ。佐久間には、火事で煙に巻かれた人たちが、高層ビルの高みから飛び降りてしまう気持ちがよくわかった。彼は夢中で布団をかきわけた。前後左右の布団が圧迫して、ますます、しんどかった。体がよく動かない。動かないながらもがむしゃらに両手でかきわけた。布団越しにまばゆさを感じた。なんだろうと思っていると、顔が冷たい空気の中に飛びでた。薄目をあけると、あたりは太陽のようにまぶしかった。もうすぐ大猫に喉をかみ切られるだろうと思った。もう次の瞬間にそうなるはずだ。しかし、次の瞬間にも、その次の瞬間にも、そうならなかった。なんとなく、大猫がいなくなってしまったような気がした。いろいろな音が「ワーン」と一斉にうなっていて、一つ一つの音が聞き取れなかった。しばらくして聞こえたのは次のような声だった。
「おい、今泉か。違うのか。もしかすると佐久間巡査長ですか。わたしの声が聞こえますか」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日