憑依

128
空が高かった。晩秋の空気は冷たいが、澄みきっていて、昨日の大雨が嘘のようである。
武一郎の運転で大阪に向かっていた。むごたらしい事件のあとで、誰も口をひらく元気がない。厳かな僧衣をまとった西田和尚が、助手席に姿勢よく座っている。豊雄はスラックスに長袖のシャツという姿だった。生まれ変わったような、決然とした面持ちである。
「兄さん、いろいろと段取りしてくれてありがとう」
武一郎はバックミラーから後部座席に座る弟の顔を見た。
「なんの。あのまずいそば屋の小母さんが昨日の夜電話してくれたんだよ。昨日の昼、井上さんがひょっこり店に来たんだってよ。おれたちのことを話すと連絡先を教えてくれたんだそうだ。それを教わり、おれはすぐに井上さんに電話した。おれは簡単に事情を説明した。菜摘のおばあさんのことが詳しくわかれば、弟たちが災難から救いだされるかもしれないと真剣に頼むと、そんなに役に立つとは思えないけど、わたしの知っていることならお話しできますよって言ってくれたんだ」
「そやけどもほんまにうちたち厄を逃れられるのかしら」
優子はうつむいて、優子とは思えないような暗い声を出した。昨晩病院の集中治療室で賢素が息を引き取った。乗り移った白猫が逃げて正気を取りもどした優子は、少し落ち着いてから賢素のことを知らされ、ふさぎこんだ。それ以来、ほとんど誰とも話をしなかった。
明け方に西田和尚が禊(みそぎ)に行くことを強く促した。優子は昨夜軽く西田和尚に清められたあと、ぐったりとなって、明日はどこにも出かけたくないと言っていた。そのことを気にした和尚が、夜明けごろ目を覚ました優子に確認してから、長い時間の説得となったのだ。
彼女は、「しばらくひとりにしてほしい。とてもではないが、車で遠出なんてできそうもない」と言い張っていたが、西田和尚にこんこんと説得され、渋々ながら応じたのである。 「優子さん、大丈夫ですよ。原因がわかれば、必ず霊を鎮められます」
西田の言葉にうなずき、優子は右側のガラスに額を押し当てた。隣の富子が背中に手を置き、ずっと寄り添っていた。
また車中は静寂に包まれた。秋の空気を切る音が人々の気持ちなどお構いなしで、小気味よい音を立てていた。
昨日の雨で舗装道路の縁がまだ濡れていた。日当たりが悪いのか、うっすらと苔に覆われているところがある。そば屋の横にあるコンクリートのごみ箱をよけて、武一郎は車をとめた。店の前にまわる。木の看板に書かれた変体仮名が薄れかけている。格子戸をガラガラあけると、あの奥さんが和服に割烹着姿で出迎えてくれた。暑さの盛りに来たときとなにも変わっていなかった。
店の半分は椅子とテーブルが並び、半分は座敷にしてあるが、いずれもあまりかまっておらず、雑然としていた。昼にはまだ早く、ほかに客はいなかった。
「ささ、こちらです。井上さんはもうとっくに来て、待っていますからね」
そう言うと、奥さんは下駄を脱いで急な階段をのぼりはじめた。二階があったのか、と豊雄と武一郎は意外な気がした。ぎしぎし鳴る階段をおそるおそるあがっていくと、客間のようなところにスリッパが並んでいた。普段は家の者が使い、頼まれると宴席に仕立てているのだろう。
武一郎の運転で大阪に向かっていた。むごたらしい事件のあとで、誰も口をひらく元気がない。厳かな僧衣をまとった西田和尚が、助手席に姿勢よく座っている。豊雄はスラックスに長袖のシャツという姿だった。生まれ変わったような、決然とした面持ちである。
「兄さん、いろいろと段取りしてくれてありがとう」
武一郎はバックミラーから後部座席に座る弟の顔を見た。
「なんの。あのまずいそば屋の小母さんが昨日の夜電話してくれたんだよ。昨日の昼、井上さんがひょっこり店に来たんだってよ。おれたちのことを話すと連絡先を教えてくれたんだそうだ。それを教わり、おれはすぐに井上さんに電話した。おれは簡単に事情を説明した。菜摘のおばあさんのことが詳しくわかれば、弟たちが災難から救いだされるかもしれないと真剣に頼むと、そんなに役に立つとは思えないけど、わたしの知っていることならお話しできますよって言ってくれたんだ」
「そやけどもほんまにうちたち厄を逃れられるのかしら」
優子はうつむいて、優子とは思えないような暗い声を出した。昨晩病院の集中治療室で賢素が息を引き取った。乗り移った白猫が逃げて正気を取りもどした優子は、少し落ち着いてから賢素のことを知らされ、ふさぎこんだ。それ以来、ほとんど誰とも話をしなかった。
明け方に西田和尚が禊(みそぎ)に行くことを強く促した。優子は昨夜軽く西田和尚に清められたあと、ぐったりとなって、明日はどこにも出かけたくないと言っていた。そのことを気にした和尚が、夜明けごろ目を覚ました優子に確認してから、長い時間の説得となったのだ。
彼女は、「しばらくひとりにしてほしい。とてもではないが、車で遠出なんてできそうもない」と言い張っていたが、西田和尚にこんこんと説得され、渋々ながら応じたのである。 「優子さん、大丈夫ですよ。原因がわかれば、必ず霊を鎮められます」
西田の言葉にうなずき、優子は右側のガラスに額を押し当てた。隣の富子が背中に手を置き、ずっと寄り添っていた。
また車中は静寂に包まれた。秋の空気を切る音が人々の気持ちなどお構いなしで、小気味よい音を立てていた。
昨日の雨で舗装道路の縁がまだ濡れていた。日当たりが悪いのか、うっすらと苔に覆われているところがある。そば屋の横にあるコンクリートのごみ箱をよけて、武一郎は車をとめた。店の前にまわる。木の看板に書かれた変体仮名が薄れかけている。格子戸をガラガラあけると、あの奥さんが和服に割烹着姿で出迎えてくれた。暑さの盛りに来たときとなにも変わっていなかった。
店の半分は椅子とテーブルが並び、半分は座敷にしてあるが、いずれもあまりかまっておらず、雑然としていた。昼にはまだ早く、ほかに客はいなかった。
「ささ、こちらです。井上さんはもうとっくに来て、待っていますからね」
そう言うと、奥さんは下駄を脱いで急な階段をのぼりはじめた。二階があったのか、と豊雄と武一郎は意外な気がした。ぎしぎし鳴る階段をおそるおそるあがっていくと、客間のようなところにスリッパが並んでいた。普段は家の者が使い、頼まれると宴席に仕立てているのだろう。