憑依

花
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「さ、中へどうぞ」  座卓をふたつ横に並べたこちら側に座っていた三人は、体ごと振り向いて、武一郎たちに深々とお辞儀した。向こう側には古ぼけてはいるが、掛け軸などが飾られた奥行きの狭い床の間がある。武一郎たちをかつての主人筋の人間とみなし、上座(かみざ)を空けておいたに違いない。
 武一郎たちは中にはいり、畳に正座し、井上さんたちとあいさつをかわした。同席したのは井上さんの娘夫婦だった。井上さんは夫に先立たれたあと、しばらく独り暮らしをしていたが、昨年娘夫婦の家に引き取られたということだ。今日も、目的のはっきりしない用件で呼びだされた老母を案じて、立ち会うことにしたらしい。
 上座から西田和尚、武一郎、豊雄、富子の順に座った。その向かいに、井上さん、婿殿、娘さんと座り、優子はその隣に座らせてもらった。井上さんは菱紋を織りこんだ茄子紺(なすこん)の、いかにも地味な紬(つむぎ)を着ていた。
 上座のほうに歩く途中で、部屋の隅にぬいぐるみやブリキのおもちゃが転がっているのに気づいた。やっぱり普段はこの家の居間かなにかに使っているんだな、と豊雄は思った。
 井上さんの本名は井上正子。関東大震災で家族を亡くしてしまったそうだ。ひとり生き残った井上さんは、大阪の親類を頼り、しばらく厄介になっていたが、ちょうど女中を探していた安藤家と井上さんの親類がよく知った間柄で、震災で家族を亡くした遠縁の娘の話を出すと気の毒がり、住みこみで雇ってくれることになったのだという。そのとき、井上さん十六歳、菜摘の祖母が三十七歳だったという。祖母はこの井上(旧姓は山口)正子という初々しい娘を気に入り、井上さんが結婚したあとは通いになったものの、最期までずっと身近に仕えさせた。祖母が亡くなると、井上さんはだんなさんと大阪に戻り、親類が営んでいた貸家にただで住まわせてもらった。
 なにかが少しずつずれているような味のする料理を食べながら、一同は井上さんの身の上話をじっと聞いていたが、やがて西田和尚が事情を説明すると、井上さんはしみじみと溜息をつき、菜摘の祖母に関する長い話をはじめた。出身が東京ということで、なかなか歯切れのよい話し方であった。井上さんの娘夫婦はおとなしい人たちで、井上さんの話が終わるまでほとんど口をきかなかった。

 奥様(菜摘の祖母)はかわいそうなかたでしたよ。こういうこともあまりほかの人にはお話にならなかったようですが、不思議とわたしには、まあちゃん、誰にも言わないでね、と言いながらも、いろいろと話して聞かせてくれたのです。わたしも誰にもお話ししません。今日は、そんな事情ということなので、特別にお話するのですよ。
 そうです。わたしのことを、まあちゃん、まあちゃんとお呼びくださって、それはそれはもったいないほど優しく接してくださいました。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日