憑依

花
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 そんな騒ぎが持ちあがりまして、奥様の縁談も一時中座するほかありませんでした。お姉様がいなければ、お家をお継ぎになるのは奥様。向こう様も跡継ぎの娘を是非に寄越せと言えるものでもなく、突然の駆け落ち騒ぎの顛末(てんまつ)をしばらく見極めてからということになってしまったのです。
 ところが、物事は悪いほうへといくものなのでしょうか、奥様のお相手のかたは帝国陸軍の将校様でいらっしゃいましたが、折しも日露戦争が起こって、そのかたも出征なさらねばなりませんでした。そして、激戦の中、旅順でお亡くなりになったそうです。おふたりはひそかに行く末までの約束を交わした間柄、奥様のお嘆きいかばかりでございましょう。その後、ずっとあとになってから、安藤家の立派なお跡継ぎ様といっしょになりましたが、おそらくは最後まで徳川様のことをお思いだったのでしょう。よくお写真をお見せくださいました。それが、さきほどから、言おうか言うまいか迷っておりましたが、そちらの、大宅(おおや)様でしたか、大宅様のご次男様にそっくり、生き写しでございます。やさしいご様子のおかたで、いえ、わたしももちろん写真で何度か見ただけですが、娘たちにちやほやされそうな、それはそれは美しい器量の殿方でした。
 さて、奥様が悲嘆の日々を過ごしておりますと、本当に不幸は続くものでございまして、脚気(かっけ)でお父様がお亡くなりになりました。母一人娘一人で寂しく家を守り、奥様も気持ちの整理がつかなく、あちらからもこちらからもひっきりなしに舞いこむ縁談を断っているうちに、例の姉夫婦が、臆面もなく、もどって参りました。
 お店のほうが繁盛し、羽振りのよくなった中村は、こともあろうに、吉田家を継ぎたいと言いだしたのです。もちろん、奥様とお母上は二もなく反対です。親戚のかたがたも中村に詰め寄って、父上が勘当した娘に吉田家を継がせることはできないと談判してくださったそうですが、中村はなかなか悪知恵の働く男で、代言(だいげん)を連れてきて、法律的な手続きをしてしまったのです。たしかに、勘当したという文書が残っているわけでもなく、お姉様はれっきとした長女ですから、中村の主張することは間違いではないのですが、しかし、こんな破廉恥なやり方がございましょうか。
 奥様もまだそのころは世間というものがわかっておらず、中村から、「お父様がお亡くなりになって、母子二人暮らしではなにかと不如意で、縁談の際も具合が悪かろう、ここはわたしが後見役を務め、もし婿を取るようなことにでもなれば、わたしたちはまた外へ出て、あなたに家督を譲る」などと、すっかり言いくるめられてしまったのです。しかも、代言が正式な書類を作って、いかにも本当らしく仕立てたのですね。それでも、奥様は簡単には承知いたしません。このままでは二条家の系統が絶えてしまうと深く心配し、家宝だけは自分に渡すということを条件にしてほしいと申し出ました。そのことでも一悶着あったのですが、「お姉様は吉田の家を守るつもりがあるのですか。長女でありながら、駆け落ちをしてしまったような人を、そう簡単に信用することはできません。吉田の家はわたしが守ります。お姉様が守ってくださるという確信が持てるまでは決して家宝はお渡しできません」と、奥様は、きっぱりと言い放ったそうで、これには中村だけでなく、お母上や親戚一同、びっくりなさったそうです。こうして家宝は奥様が守ることになり、書類にもはっきり書かれたそうです。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日