憑依

花
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 中村も、商売が順調で、懐が広くなっているころでしたから、もしかすると、取り決めを交わしたときは、本当にそうするつもりだったのかもしれませんが、本心は今となってはわかりません。風向きが変わったのでしょうか、あれほど順調にいっていたお茶屋がだんだんと不振になり、それまでは冴えていた中村の投資の勘も急に鈍りだしました。そのころお姉様は喀血(かっけつ)し、床に伏せる毎日でしたが、ついにいけなくなりました。結核を患ってしまわれたのでした。当時はとにかく結核でお亡くなりになるかたが多かったですからねえ。それで、お姉様のお弔いがすんで、菩提寺の僧坊で、中村に今後のことを話そうと持ちかけると、中村もそう考えていたところだと答えたのです。「迷惑をかけるようなことはしない。家内のためにためておいたお金をお渡しして、外に出ようと思っているのだが、空約束になるといけないから、前の代言を呼んである、明日、きっちりとあとくされのないようにお話を致しましょう」などと、おふたりをすっかり安心させて、「自分は準備があるから一足先に家に戻っております」と言って、寺を出ました。
 さあ、それが大変なことになっていました。奥様たちが日暮れすぎに家にもどると、中村は金目のものをすべて持ちだして、行方をくらましておりました。あの大事な家宝もございません。それだけではありません。中村はかなり無理に借金をしていて、土地屋敷は全部抵当に入っていたのです。翌日になると借金取りが書類を携えてやって参りました。哀れな奥様と母上様は抵抗を試み、必死で追い返しました。ところが、また次の日に代言を連れて、自分の行為が法律的に正当であることを言い立てました。おふたりは親戚に相談いたしましたが、窮地に陥ると肉親も頼りにならないものでございます。悪い奴に引っかかったんだと察し、できるだけ遠巻きに様子を見ていようという態度で、誰も土地屋敷を取り返すとは言ってくれません。結局、土地屋敷は取られてしまいました。それどころか、まだ相当の借金が残っているのです。母上様は警察に被害届を出しましたが、中村の行方は杳(よう)としてわかりません。こともあろうに、借金取りは奥様に身売りを勧めます。もちろん、そんなこと誰が承知しましょうか。華族でこそないものの、先祖をたどればれっきとした公家で、時の帝から下賜された家宝の石帯まであるのです。そんな由緒正しい家柄の娘が、身売りだなんて、よくも口に出せたものでございます。
 親族の薄情さにあきれた母上様と奥様は、ふたりで小さなお住まいを借りて、縫物仕事などを引き受けて、ほそぼそと暮らしながら、少しずつ借金を返しておりましたが、母上様もお姉様と同じご病気になり、何度も喀血なさいますと、奥様は無理に母上様を寝かしつけて、今度はひとりで鶏の鳴くころから月明かりが窓辺に射しこむころまで、ひたすら針仕事をなさいます。しかし、娘ひとりの働きなどたかがしれたもので、借金を返すどころか、日々の生活にさえことを欠く始末でございます。奥様は、母上様に栄養をつけて、お薬代を捻出するため、一大決心なさいました。そうなんです。とうとう奥様はうら若き乙女の身を遊里に売ってしまわれたのでございます。遠くの親類より近くの他人と言いますが、昔から使っていた下女のところに母上様を移しまして、日常の経費から薬代まで仕送りして、自分は贅沢はなにもせず、苦界に身を沈め、毎夜枕を濡らしていらっしゃったとき、安藤家のご当主に見初められたのでございます。この方は四十に届く齢(よわい)でございましたが、先年奥様を亡くされ、公家の血を引く遊女の評判を聞きつけると、その日のうちにお会いになりました。そして、その美しさと聡明さに心を引かれ、すぐさま身請けしたのでございます。ですから、奥様が遊里におありだったのは、よっぽどわずかな日数だったのでございます。
 先の奥様は娘ばかり三人お産みになって、お亡くなりになったのです。我が奥様には、男の子おふたり、どちらも立派に出世なさって、そのおひとりが菜摘お嬢様のお父様でした。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日