憑依

133
襖がうるさく鳴り、一同の視線はそちらへ向いた。例のそば屋の奥さんがお茶を替えにきたのだ。襖がひらいた途端に、白い猫が入りこんで、にゃあと鳴いた。すぐ井上正子の横まで走った。
「その猫は?」と、豊雄がきいた。
「ええ、これは奥様の猫です。お亡くなりになるとき、わたしに世話を頼まれましたので、ずっと飼ってるんですよ。今日は、出がけに、しきりとせがむものですから、連れてきてしまったんです」
みなの視線が、まだほとんど手つかずの正子の膳に向かった。
「でも、お店のかたに頼んで、餌を食べさせてもらいましたから、ほしがらないでしょう」と、娘が口を挟んだ。
それで、猫からかばおうと方々(ほうぼう)から正子の膳に伸ばしかけた手が引っ込んだ。
おとなしくてお行儀のいい猫だった。しかし、豊雄たちは薄気味悪いものを感じた。西山和尚の目つきが鋭くなっている。
「あれ、お母さん、話に夢中になって、ぜんぜん箸をつけていないじゃないですか」と、娘婿があきれたような声で言う。
長い話だったので、誰の皿もすっかりきれいになってしまっていた。そば屋の奥さんが、茶を替えて、菓子を並べている。
「本当だ。いやあ、すっかり聞き入ってしまい、井上さんにお食事を勧めるのを忘れておりました。どうぞ、ゆっくりお召しあがりください」
武一郎がそつなく食事を促すと、正子はやっと箸を持った。
「そうでしたか。いや、菜摘のおばあさんが花柳界の出身で、当時大阪でいちばんの売れっ子だったとは聞いたことがありますが、そんなご苦労をされていたのですね。あのかたは物静かで、いつもにこやかにしていらっしゃいましたから、まさかそんな波瀾万丈な人生を送られていたとは想像もできませんでしたよ」
話し上手な武一郎は、すっかり乾いたそばを正子がゆっくり食べている間(ま)をとりつくろった。正子が半分ほど料理を食したころ、気のせいていた豊雄が口を切った。
「それで、二条家の家宝にはどんな由来があるのでしょうか」
「豊雄、少し待てよ。井上さんがぜんぜん食べられないじゃないか」と、武一郎が制しようとした。
「いや、わたしはこれだけいただけばじゅうぶんですから」と、正子は袂(たもと)を汚さないように箸を置き、ぬるくなった茶を少し口に含んだ。
「あっ、優子ちゃん、どうかした?」
富子の声に驚いて、一同は、井上さんの娘夫婦の横に静かに座っていた優子のほうを見た。顔をうつむけてほとんど座卓に頬がつきそうになっている。顔をしかめ、血の気がない。
「あら、大丈夫」と、正子の娘が優子の肩を軽く抱いた。
「大丈夫です」
「ちょっと、横になってたほうがいいわよ」と、富子が腰を浮かせながら言った。
「はい」
西山和尚は優子の顔を厳しい目つきで見つめた。
「あれ、どうしましょう。今日はここいらでお話をやめておいたほうがよいかしら」と正子が言った。
「大丈夫です。こうしていれば、なんでもないですから」優子は消え入りそうな声で答えた。
武一郎は判断しかねて、和尚の顔を窺った。
「もう少し、様子を見てみましょう。どうぞ、井上さん、二条家の家宝についてお話しくださいませ」
「いいんですか」
正子は心配そうに優子の顔を見守って、視線を和尚や武一郎にもどし、膝に白猫を抱え、右手で撫でながらまた話しはじめた。
「その猫は?」と、豊雄がきいた。
「ええ、これは奥様の猫です。お亡くなりになるとき、わたしに世話を頼まれましたので、ずっと飼ってるんですよ。今日は、出がけに、しきりとせがむものですから、連れてきてしまったんです」
みなの視線が、まだほとんど手つかずの正子の膳に向かった。
「でも、お店のかたに頼んで、餌を食べさせてもらいましたから、ほしがらないでしょう」と、娘が口を挟んだ。
それで、猫からかばおうと方々(ほうぼう)から正子の膳に伸ばしかけた手が引っ込んだ。
おとなしくてお行儀のいい猫だった。しかし、豊雄たちは薄気味悪いものを感じた。西山和尚の目つきが鋭くなっている。
「あれ、お母さん、話に夢中になって、ぜんぜん箸をつけていないじゃないですか」と、娘婿があきれたような声で言う。
長い話だったので、誰の皿もすっかりきれいになってしまっていた。そば屋の奥さんが、茶を替えて、菓子を並べている。
「本当だ。いやあ、すっかり聞き入ってしまい、井上さんにお食事を勧めるのを忘れておりました。どうぞ、ゆっくりお召しあがりください」
武一郎がそつなく食事を促すと、正子はやっと箸を持った。
「そうでしたか。いや、菜摘のおばあさんが花柳界の出身で、当時大阪でいちばんの売れっ子だったとは聞いたことがありますが、そんなご苦労をされていたのですね。あのかたは物静かで、いつもにこやかにしていらっしゃいましたから、まさかそんな波瀾万丈な人生を送られていたとは想像もできませんでしたよ」
話し上手な武一郎は、すっかり乾いたそばを正子がゆっくり食べている間(ま)をとりつくろった。正子が半分ほど料理を食したころ、気のせいていた豊雄が口を切った。
「それで、二条家の家宝にはどんな由来があるのでしょうか」
「豊雄、少し待てよ。井上さんがぜんぜん食べられないじゃないか」と、武一郎が制しようとした。
「いや、わたしはこれだけいただけばじゅうぶんですから」と、正子は袂(たもと)を汚さないように箸を置き、ぬるくなった茶を少し口に含んだ。
「あっ、優子ちゃん、どうかした?」
富子の声に驚いて、一同は、井上さんの娘夫婦の横に静かに座っていた優子のほうを見た。顔をうつむけてほとんど座卓に頬がつきそうになっている。顔をしかめ、血の気がない。
「あら、大丈夫」と、正子の娘が優子の肩を軽く抱いた。
「大丈夫です」
「ちょっと、横になってたほうがいいわよ」と、富子が腰を浮かせながら言った。
「はい」
西山和尚は優子の顔を厳しい目つきで見つめた。
「あれ、どうしましょう。今日はここいらでお話をやめておいたほうがよいかしら」と正子が言った。
「大丈夫です。こうしていれば、なんでもないですから」優子は消え入りそうな声で答えた。
武一郎は判断しかねて、和尚の顔を窺った。
「もう少し、様子を見てみましょう。どうぞ、井上さん、二条家の家宝についてお話しくださいませ」
「いいんですか」
正子は心配そうに優子の顔を見守って、視線を和尚や武一郎にもどし、膝に白猫を抱え、右手で撫でながらまた話しはじめた。