憑依

花
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 明るいリビングルーム。広いテラス。日だまりの中、平輔はリクライニングチェアーに深々と身を横たえ、晩秋の冷たい空気を心ゆくまで味わっていた。ひどい排気ガスも、木々に囲まれた平輔の邸宅までは入り込まない。まるで、白樺や鈴掛の木がつけている無数の葉の表面の微細な隙間に、有毒ガスが吸いこまれ、浄化してしまったかのようである。慌ただしい都会にあって、ここはいかにも静かな場所であった。もみの木、ブナの木の梢の細かい一本一本が、青い空を背景に、くっきりと見えている。時折、松や柏の葉を揺らして、涼しい風が木々のなんともいえない匂いを運んでくる。
 平輔は九十を越え、一日一日をいとおしむように過ごしていた。五年前に妻に先立たれ、いつこの世を去ってもかまわないという、安らかな心境に達していた。四十代に心を入れ替え、茶屋を真面目に経営するようになった。途中から旅館に切り替え、太平洋戦争後は、焼け野原になった繁華街の土地を買い占め、大々的にホテルの経営に乗りだした。それが当たり、現在では全国の主要都市に進出するまでになった。高齢になっても、経営の主導権は譲らず、ワンマン経営をしていたが、妻を失って、急に心の張りがなくなり、息子たちに資産を分配し、会社を任せ、遅ればせながら第二の人生を歩みだした。彼は、すべてやり遂げ、思い残すことはないと思っていたし、自分の人生に充実したものを確かに感じていた。一代で大きなホテルグループを築きあげたとして、子どもたちや地域の人々に一目置かれていた。手段を選ばず欲望を満たしていた若いころの自分の悪行を、幾分かでも償おうという気持ちからか、後半生はできる限り堅実に、正直に生きてきた。彼は自分の中の泥のように濁った部分も、すっかり清められたと、単純に考えていた。それでも、もちろん、ふとしたときに、昔の自分の悪行で苦しんだ者の顔を思い浮かべ、苦い気分を味わうことがある。だが、同時に、彼はその者たちの苦しみを、本当の意味で知ろうとしたことはなかった。そこに彼がたどり着く前に、彼の中の、「所詮、この世には強い者と弱い者がいる。鷹は小動物を捕まえて生きる。鷹が悪いのではない。自然の摂理なのだ」という観念が、立ちふさがる。そして、彼はその観念の中で、常に鷹であった。
 引退して、前線から遠ざかり、ちょっとした病に倒れ、療養生活を長く続け、生身の体の弱さというものを痛切に感じるようになり、気持ちが甘くなったのか、最近は、自分に征服された者のことをしばしば考える。夢にまで見る。
 あの夢を見るようになったのは、いつのことだったろうか。はじめはきれいな若い女だなと、うかれる気分になった。何度か見るうちに、それがいつも同じ表情で、なにか言っていることに気づいた。聞こえそうでいて、よく聞こえない。それで、女に近づこうとすると、目が覚めるのだ。いつも白い猫を胸に抱いている。見たことのない女のようで、どことなく見覚えがありそうでもあった。そのうちにはっきりと、見覚えがあると思った。だが、女の声が聞こえそうで聞こえないのと同じで、女が誰なのか、思い出せそうで思い出せなかった。ただ、自分がその女にひどいことをしたということは間違いない、という確信めいたものがあった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日