憑依

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彼は思念からもどり、美しい緑を眺めて、深く息を吸いこんだ。すると、にわかに空の一画が薄墨をはいたようになり、風が一層冷たくなった。
「一雨来そうだな」
「旦那様」
家政婦が新しいブナ材のドアをひらき、テラスに出てきた。見るからに清潔そうな白いエプロンをつけている。
「なんだ」
平輔はリクライニングチェアーに横たわったまま振り向いた。
「新しく雇うことになりました看護師が駅に着いたそうですので、迎えに行って参ります」
平輔に報告すると、家政婦は深々と頭をさげてテラスを去り、ドアを静かに閉めた。
半年前にごく軽症の脳梗塞で倒れた。軽い言語障害と半身の麻痺があったが、それもほとんど直った。大げさなリハビリも必要なくなったので、理学療法士をやめさせ、散歩に付き添わせたり、血圧を測らせたりするために、新たに看護師を雇うことにしたのだ。平輔には息子が三人、娘が二人いる。そのうちの一人、大阪の大学を卒業してホテルグループの経営を引き継いだ長男の、古くからの友人で、市内で開業医をしている男が、すぐに優秀な看護師を見つけてくれた。
平輔は人間に関する興味はほとんど失っていた。今は、庭に潤いを与える樹木や遠い空から飛来する鳥を眺めるのが、なによりの楽しみだった。うまいものを食べたいとも思わなかった。昼に自分で打つ蕎麦となじみの伏見の酒蔵から送られてくる酒を一杯、これだけが生きる楽しみだった。朝は飯に梅干し、鰺の干物とおひたし、夕は飯に塩鮭、お揚げの味噌汁に筑前煮、いつもそんな感じであった。
人間が求めるものは結局シンプルになるが、それは生命がもともとシンプルだからなのだ。
平輔がそんなことを思いながら、楢の木を眺めると、塀から楢の木の太い枝に飛び移ったものがあった。白い猫だ。枝にうずくまって、平輔をじっと見つめた。平輔は妙な気分になった。
桜やイチョウ、くすの木が小雨に煙っていた。風が強くなってきた。済美(せいび)女学園高等学校の校章をつけた制服に臙脂色のリボンが揺れる。優子はくすの木の下にあるベンチに腰かけて、前方をじっと見据えていた。くすの木が雨を遮(さえぎ)っていたが、横から霧のような雨を吹きつける風で、スカートや白い靴下は湿り気を帯び、黒い革靴の表面には小さな水玉がびっしりついていた。しかし、彼女はそんなことはまったく気にしていなかった。優子の数歩先に象の遊具があり、そのまた数歩先に、カンガルーの遊具が置かれていた。その先はもう児童公園の出入り口になっており、道を隔てて、豪壮な邸宅が堂々とした面構えで周囲を圧倒していた。
ベンチに座る優子の横に白猫が飛び乗った。優子は白猫の背中を撫でた。水を含んだ毛が刷毛先のように斜めに立った。優子の目は、赤レンガとロートアイアンで、重厚かつエレガントにデザインされた門扉にそそがれていた。
ベージュ色のシルクでできた雨傘をさした家政婦が、門扉の前に立つと、中にいる門番の男がうなずいた。紺のスーツを清楚に着こなした看護師も同じシルクの雨傘をさしていた。
「すみませんでした」
「かまいませんよ」
看護師から傘を受け取った家政婦は穏やかに笑みを浮かべた。
「一雨来そうだな」
「旦那様」
家政婦が新しいブナ材のドアをひらき、テラスに出てきた。見るからに清潔そうな白いエプロンをつけている。
「なんだ」
平輔はリクライニングチェアーに横たわったまま振り向いた。
「新しく雇うことになりました看護師が駅に着いたそうですので、迎えに行って参ります」
平輔に報告すると、家政婦は深々と頭をさげてテラスを去り、ドアを静かに閉めた。
半年前にごく軽症の脳梗塞で倒れた。軽い言語障害と半身の麻痺があったが、それもほとんど直った。大げさなリハビリも必要なくなったので、理学療法士をやめさせ、散歩に付き添わせたり、血圧を測らせたりするために、新たに看護師を雇うことにしたのだ。平輔には息子が三人、娘が二人いる。そのうちの一人、大阪の大学を卒業してホテルグループの経営を引き継いだ長男の、古くからの友人で、市内で開業医をしている男が、すぐに優秀な看護師を見つけてくれた。
平輔は人間に関する興味はほとんど失っていた。今は、庭に潤いを与える樹木や遠い空から飛来する鳥を眺めるのが、なによりの楽しみだった。うまいものを食べたいとも思わなかった。昼に自分で打つ蕎麦となじみの伏見の酒蔵から送られてくる酒を一杯、これだけが生きる楽しみだった。朝は飯に梅干し、鰺の干物とおひたし、夕は飯に塩鮭、お揚げの味噌汁に筑前煮、いつもそんな感じであった。
人間が求めるものは結局シンプルになるが、それは生命がもともとシンプルだからなのだ。
平輔がそんなことを思いながら、楢の木を眺めると、塀から楢の木の太い枝に飛び移ったものがあった。白い猫だ。枝にうずくまって、平輔をじっと見つめた。平輔は妙な気分になった。
桜やイチョウ、くすの木が小雨に煙っていた。風が強くなってきた。済美(せいび)女学園高等学校の校章をつけた制服に臙脂色のリボンが揺れる。優子はくすの木の下にあるベンチに腰かけて、前方をじっと見据えていた。くすの木が雨を遮(さえぎ)っていたが、横から霧のような雨を吹きつける風で、スカートや白い靴下は湿り気を帯び、黒い革靴の表面には小さな水玉がびっしりついていた。しかし、彼女はそんなことはまったく気にしていなかった。優子の数歩先に象の遊具があり、そのまた数歩先に、カンガルーの遊具が置かれていた。その先はもう児童公園の出入り口になっており、道を隔てて、豪壮な邸宅が堂々とした面構えで周囲を圧倒していた。
ベンチに座る優子の横に白猫が飛び乗った。優子は白猫の背中を撫でた。水を含んだ毛が刷毛先のように斜めに立った。優子の目は、赤レンガとロートアイアンで、重厚かつエレガントにデザインされた門扉にそそがれていた。
ベージュ色のシルクでできた雨傘をさした家政婦が、門扉の前に立つと、中にいる門番の男がうなずいた。紺のスーツを清楚に着こなした看護師も同じシルクの雨傘をさしていた。
「すみませんでした」
「かまいませんよ」
看護師から傘を受け取った家政婦は穏やかに笑みを浮かべた。