憑依

花
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「どういうことですか」と、豊雄。
「猫がいませんね」
「ええ、確かにそうです。で、それだとどうなのですか」
 西田は豊雄をまっすぐに見た。
「優子さんの体から、気配が感じられないのです。あなたに初めて高山でお会いしたとき、真名美さんになにかが取り憑いていることはすぐにわかりました。しかし、今は、まったく気配が感じられないのです。優子さんはもう心配ないと思います」
「では、白猫に取り憑いていた、菜摘のおばあさんの霊はどこへ行ったというのですか」
 西田はロートアイアンで造られた荘重な門のほうを見た。
「中村さんの家族のだれかに乗り移ったというのですか」
 西田はゆっくりかぶりを振った。
「いや、わからないのです。あるいは、そうかもしれません。どうも霊は優子さんにはなんの未練もないみたいなのです。ことによると、菜摘さんのおばあさまの霊とかかわることは、もうやめるべきかもしれません」
 豊雄と武一郎は黙って西田和尚の言うことを聞いていた。富子と優子もそぼ降る雨にはかまわず、ベンチで身を寄せ合ったまま、耳を傾けている。
「こういうことは、仏に仕える身であるわたしが言うべきではないとわかっています。しかし、菜摘さんのおばあさまのお気持ちを考えると、これでいいような気もします」
「菜摘のおばあさんの気持ち?」と武一郎は言った。
「はい。中村という人が、今、どれほど立派におなりになったのかは存じません。しかし、わたしには、菜摘さんのおばあさまのようなかたを破滅の淵に追いやった罪がすっかりあがなわれたとは、とうてい思えないのですよ。ですから、仮に菜摘さんのおばあさまの霊が、白猫を介してあのお屋敷に入り込み、中村という人にどのような報いを与えたとしても、それは自業自得というものではないでしょうか。僧侶であるわたしがこのようなことを申すのは間違っているかもしれません。しかし、わたしは一個の人間として、素直に感じる気持ちにあらがうことはできそうもありません。修行が足りないのでしょうねえ。それに、仮にわたしが中村という人を救おうと考えたとしても、実はそれ自体不可能なことなのです。そもそもわたしにそこまでの法力はありません。このお屋敷の中に入り、中村という人に怪しまれずに済み、除霊することは理解していただいたとしても、わたしにはなにもできないでしょう。それほど菜摘さんのおばあさまの霊は力が強くなっているのです。仇(かたき)に近づいたために、神通力(じんつうりき)が増しているのでしょうねえ。わたしがここでできることはなにもありません。豊雄さんや、富子さん、優子さんも、もはや危難から遠ざかりました。嵐はすでに去ったのです。それなのに、ふたたび嵐のただなかに飛びこむ必要がありましょうか?」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 憑依
◆ 執筆年 2011年8月20日