憑依

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まっすぐ西田に見つめられ、豊雄は言い返すことができなかった。それに、確かに今まで自分を苦しめていた重苦しい気分はなくなっていた。何年ぶりかで、からりと晴れやかな気分がする。富子と優子のほうを見ると、やはり晴れやかな表情をしていた。よく考えてみたら中村という男に対する同情心などまるで持ち合わせていなかった。むしろ、だれにも裁くことのできない彼の悪行に報いを与える者があれば、少なからず賛意を表したいという気分であった。自分の安全をやっとのことで確保できた者が、好意を抱いていない者の危難を救うため、身の危険を冒してまで、可能性の極めて乏しい状況を打開しにいくなどということがあるであろうか。もしそれが成熟した人間のあるべき姿だとしたら、豊雄はもちろんのこと、武一郎も富子も優子も、成熟した人間ではなかった。なにしろ、高徳の聖(ひじり)である西田和尚でさえ、我が身の未熟さにあきれ果てた次第なのだから。
一同は天王寺区をあとにして、住吉大社、音無の滝、そして、西田の寺へ、というぐあいに駆けまわった。豊雄が自分の意志薄弱を反省し、真面目に生きることを富子に誓ったのは、すでに書いたとおりである。好きな数学の勉強を実社会に役立てるべく、これも血筋のなせる技であろうか、まずは行政の道を目指そうと決意し、人々のために力を尽くそうと努力をはじめた。富子を大切にしながらも、毎年命日には必ず西田和尚の僧坊に立ち寄り、菜摘に祈りを捧げ、あのロケットを柔らかな布でやさしく磨いた。そのときだけは、豊雄はひそかに、菜摘と過ごした漁師会館でのことを思い浮かべた。
意志が弱くそそのかされやすいために災難を背負い込んだ者と、思いを遂げたい一心に身を滅ぼした者の顛末(てんまつ)を長々記したついでに、穏やかに見える波の底で計り知れない憎しみのエネルギーを長い年月蓄えた者の挿話を付記し、擱筆(かくひつ)しよう。
室内にもどるとすぐ、看護師を伴って、家政婦が入ってきた。
「旦那様、こちらが新しくお見えになった看護師さんでございます」
家政婦が紹介すると、看護師は礼儀正しくあいさつした。その顔を見て、平輔はぎょっとした。夢の中の女である。そう思ってまじまじとその整った顔を見ると、もう夢の中の女ではなくなっていた。しかし、平輔の肌はなにか得体の知れぬ恐怖を感じとり、産毛を逆立てた。
それでも、彼女の柔らかな物言いとこぼれんばかりにひらく花のような微笑で、平輔の胸はしだいに温められた。
彼女が来て何日か過ぎたときのことだった。二階の寝室で目覚め、ノックの音に応答すると、白いカーディガンを羽織った看護師が入室し、検温や見脈など通常どおりの用務に当たった。平輔はこのときにはもう、夢で見た女と看護師を重ね合わせて見はしなかった。
血圧を測るとき、衣服の向こうの豊かな胸がかすかに手に触れ、甘くほのかな息づかいを感じてうっとりしていると、ベッドが小刻みに揺れるのがわかった。看護師もそれに気づいたみたいで、血圧計をすばやく取り去ると、平輔の二の腕をつかんで息を潜めた。次の瞬間に家が大きく揺れた。それは、平輔が経験した中でもかなり大きな地震だった。
「外へ出ましょう」
平輔は厳しい表情でうなずくとベッドから起きあがり、看護師に手を引かれながら廊下に出た。極力ゆっくり歩くようにしている平輔は看護師の慌てぶりを恐れた。階段の最上段で階下の黒檀でできたキャビネットを目にしたときいやな予感があった。背中を強く押されたと思ったときは、すべてが終わっていた。経験したことのない浮遊感と不安定感があり、直後、上下が逆さまになり、後頭部がすごい音を立てた。目蓋の裏に幾千の星がきらめき、信じられない角度で体がねじ曲がって、どこまでも転がっていった。
一同は天王寺区をあとにして、住吉大社、音無の滝、そして、西田の寺へ、というぐあいに駆けまわった。豊雄が自分の意志薄弱を反省し、真面目に生きることを富子に誓ったのは、すでに書いたとおりである。好きな数学の勉強を実社会に役立てるべく、これも血筋のなせる技であろうか、まずは行政の道を目指そうと決意し、人々のために力を尽くそうと努力をはじめた。富子を大切にしながらも、毎年命日には必ず西田和尚の僧坊に立ち寄り、菜摘に祈りを捧げ、あのロケットを柔らかな布でやさしく磨いた。そのときだけは、豊雄はひそかに、菜摘と過ごした漁師会館でのことを思い浮かべた。
意志が弱くそそのかされやすいために災難を背負い込んだ者と、思いを遂げたい一心に身を滅ぼした者の顛末(てんまつ)を長々記したついでに、穏やかに見える波の底で計り知れない憎しみのエネルギーを長い年月蓄えた者の挿話を付記し、擱筆(かくひつ)しよう。
室内にもどるとすぐ、看護師を伴って、家政婦が入ってきた。
「旦那様、こちらが新しくお見えになった看護師さんでございます」
家政婦が紹介すると、看護師は礼儀正しくあいさつした。その顔を見て、平輔はぎょっとした。夢の中の女である。そう思ってまじまじとその整った顔を見ると、もう夢の中の女ではなくなっていた。しかし、平輔の肌はなにか得体の知れぬ恐怖を感じとり、産毛を逆立てた。
それでも、彼女の柔らかな物言いとこぼれんばかりにひらく花のような微笑で、平輔の胸はしだいに温められた。
彼女が来て何日か過ぎたときのことだった。二階の寝室で目覚め、ノックの音に応答すると、白いカーディガンを羽織った看護師が入室し、検温や見脈など通常どおりの用務に当たった。平輔はこのときにはもう、夢で見た女と看護師を重ね合わせて見はしなかった。
血圧を測るとき、衣服の向こうの豊かな胸がかすかに手に触れ、甘くほのかな息づかいを感じてうっとりしていると、ベッドが小刻みに揺れるのがわかった。看護師もそれに気づいたみたいで、血圧計をすばやく取り去ると、平輔の二の腕をつかんで息を潜めた。次の瞬間に家が大きく揺れた。それは、平輔が経験した中でもかなり大きな地震だった。
「外へ出ましょう」
平輔は厳しい表情でうなずくとベッドから起きあがり、看護師に手を引かれながら廊下に出た。極力ゆっくり歩くようにしている平輔は看護師の慌てぶりを恐れた。階段の最上段で階下の黒檀でできたキャビネットを目にしたときいやな予感があった。背中を強く押されたと思ったときは、すべてが終わっていた。経験したことのない浮遊感と不安定感があり、直後、上下が逆さまになり、後頭部がすごい音を立てた。目蓋の裏に幾千の星がきらめき、信じられない角度で体がねじ曲がって、どこまでも転がっていった。