豹陣
-中里探偵事務所-

探偵
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場面3

後年に試みる旅行、大きな都会、逆巻く海、夢のような景色、愛する人々の顔なども、子供のおりのかかる散歩や、または、他になすこともなくて小さな唇を窓ガラスにつけ、そこにできる息の曇り越しに、毎日透し見た庭の片隅、そういうものほど正確には心の中に刻み込まれない。
――ジャン・クリストフ
『ロマン・ローラン』

 楓(かえで)が今年は美しく色づいた。銀杏(いちよう)の黄色い葉がはらはらと舗道に落ちかかる。JR足利駅からあふれ出した勤め帰りの男女が、思い思いの方向に歩いていく。伊勢宮通りの店に遅い夕食を求める人もいる。仲間と飲み場所を物色する人もいる。
 「あをやぎ」と瀟洒な筆文字の看板を出した、こぢんまりした天麩羅屋を素通りして、海老茶のネクタイをゆるめた会社員が、はす向かいの焼き鳥屋の暖簾(のれん)をくぐる。
 間口が一間(いつけん)の「あをやぎ」の玄関前には盛り塩がしてあり、藤袴と菊が清楚に活けられている。もし誰かが格子を開けて店内に足を踏み入れたなら、きっとこの店は鮨屋なのだろうと思うだろう。カウンターの奥で糊の利いた白い割烹着姿の包丁人が一人で黙々と魚を下ろしている。
 三十も半ばを越えた頃合のその男は、割烹着の上に茄子紺の前掛けをつけて、きびきびと小気味よく立ち働いている。白い小判帽子の縁のすぐ下にあるきりっとした細い眉が印象的だ。鋭いが優しい目。引き締まった口元。あごもすっきりとして、男らしい。外見には余計な心配りをせず、信頼感と清潔感を与えられればいいと思っている。あまり笑わず、余計な口も利かない。決して重厚ではないが、客を盛りあげられるほど話し上手ではない。
 鮨屋のようなショーケースに粋のいいネタが整然と並べられている。伊勢湾で採れた車海老、宮城産のきす、紀伊半島串本で水揚げされたカマス、有明湾の芝海老。季節に獲れた新鮮なネタをできるだけ置こうとしている。足利の市場に毎朝出かけて、選りすぐりを仕入れてくる。あるいは、信頼している築地の卸業者から送ってもらう。さらには、インターネットなどで情報を集め、産地から直接送ってもらう。あの手この手で厳選したネタを揃えるのだが、時期や天候などによっては極端に品揃えが悪くなることもある。しかし、この料理人は品の劣るものを客に出そうとはしない。
 「バカガイ」と呼ぶとこの店の雰囲気にはそぐわなくなるが、その貝柱は小柱といって天麩羅屋ではかき揚げのネタとしてよく使われる。もっともこの貝の旬は春だから、素材の吟味にやかましいこの店の主人は今の季節には仕入れていないが、これが店名の由来になっている。つまり、この貝の別名は「青柳」なのだ。「バカガイ」よりも「青柳」と言う人のが多いかもしれない。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 豹陣-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2015年8月