豹陣
-中里探偵事務所-

探偵
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 そんな母に料理を教わり、また母の柔らかな京言葉の端々からにじみ出る優雅な京文化を肌で感じるうちに、譲は料理人になることがもっとも自分らしいことなのではないかと思うようになった。
 しかし、そんなことは誰にも言えなかった。裁判官の父が自分に何を望んでいるか、わかっていたし、学業も順調だったから、放っておけば川が海に流れ着くように、彼も高校、大学とそういう路線をたどった。
 大学の三年生まではそれでもあまり疑問を感じずにやってきた。司法試験の準備にも身を入れていた。しかし、四年生になり、司法試験の日程が迫ってくると、いよいよ自分の人生が本決まりするのだという実感が湧いてきた。それと同時にそれまで閉じ込めていた疑問が急にあふれてきた。本当にこれでいいのか。一度しかない俺の人生だぞ。
 そして、三日三晩考え抜いて司法試験を受けることにした。
 短答式試験を通過し論述試験の日程が近づいてきた。
 彼はまた悩んだ。一週間悩みぬいた。
 結局論述試験も受けて通過した。
 また悩んだ。今度は三週間悩んだ。
 もし通過した後で進路変更するのなら、通過する前に変更して、法曹界にどうしても進みたい人のために席を譲ってやるべきではないか。こう思った。
 実家に帰り、父親に率直に経緯を話した。父親は不愉快になったが、息子が筋金入りの頑固者であることを知っていたので、いくばくもしないうちにあきらめた。
 譲は大学を卒業するとすぐに、東京の調理師専門学校に入学した。
 そこを卒業すると京都の料亭の門を叩いたが、どこにも入れてもらえず、東京の料亭で修行をした。
 大学出のしかも相当なインテリということで初めのうちは色眼鏡で見られたが、小さいころから包丁を握っていて、専門学校でも優秀だったので、ほどなく認められるようになった。
 三年修業すると、かねてからの念願であった京都の料亭で修業できることになった。見込みのあるやつだと、主人がじきじきに推薦してくれ、京都でも指折りの料亭に入ることができた。
 二年後、すでに栃木県警に勤務していた亜沙子とそろそろ身を固めようかということになった。六年越しの恋が実ったのであった。
 しかし、京都の板前と栃木の警察官ではどう考えても一緒に暮らすのは難しい。どちらかが職を辞めるか、職場を変えるか、別れるか、選択肢はそれぐらいしかなかった。しかし、二人は妙に馬が合い、どちらにもまったく別れるつもりはなかった。といって、職場を変えることはどちらにも難しかった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 豹陣-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2015年8月