豹陣
-中里探偵事務所-

探偵
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場面4

何だかこうして坐っていると、硝子(ガラス)戸の外のくら暗(やみ)が、急にこっちへはいって来そうな気がしないでもない。
――芥川龍之介
『西郷隆盛』

 揚げ立てでまだじくじく音を立てている車海老の天麩羅に塩をつけて男がほおばる。
「あちっ、舌やけどしちゃった」
「ほんと、揚げ立てですからね。気をつけてくださいよ」
「もう手遅れだよ。でも、あつあつをほおばるのがいいんだよな」
 譲は口もとに笑みをうかべた。
「そうですね」
 譲は揚げかすをすくい取った。
「どうですか、もっと揚げましょうか。活きのいい芝海老(しばえび)が入りましたから、かき揚げでも作りましょうか」
 男はうれしそうにうなずいた。
「いいねぇ、ご飯軽く盛ってもらってかき揚げ丼と洒落こむか」
「承知しました」
 譲が蓮根(れんこん)と長葱(ながねぎ)を手早く切って芝海老と混ぜていると、格子がからから軽い音を立てて開いた。
「いらっしゃーい!」
 薄手のコートに長い髪がかかった若い女は田部井巡査部長だった。彼女は客の方に一瞬目を向けると、そこから三つほど離れたイスに腰掛けた。
「すいません。竹、お願いします」
 竹は車海老が一つ付く、全部で七品のセットだ。ご飯と赤だしと香の物がついてくる。
 譲は天麩羅を揚げる直前に、田部井亜沙子の前にご飯などを並べだした。その途中でかき揚げ丼を食べ終わった男が支払って出ていった。
 勤務中に束ねている長い髪は、エクストレイルに乗りこんだときにほどいた。「左の耳だけ出ているのが、なかなかいいなあ」と、出ていく前にちらっと亜沙子を盗み見た男は思った。
「譲さーん、すっごい事件になりそうなのよ」
 店の中に他の客が誰もいなくなると、亜沙子は口調を変えた。
「さっきニュースで見たけど、ひき逃げ事件だから、交通課の仕事になるんじゃないのかい」
 譲は鰯(いわし)のすり身を蓮根(れんこん)で挟んで揚げたものを箸でつまんで亜沙子の皿に置いた。
「うまそー」
 大きくはないが、くりっとした愛嬌のある目で、譲が突き出した菜箸(さいばし)の先を凝視した。
 知性を感じる目の形だが、いまは食欲のほうが全面に出ている。小さく低いが決して容姿を損なうものではない鼻と小さく整った口。あごはすっきりと細い。いわゆる小顔というやつだろう。守ってあげたくなるような妹タイプだ。つややかに光る長い髪をうしろにかきなでるのを見るとき、この女性が殺人課の刑事をやっていると思う人はいないだろう。
 二人は、店内に客がいる間は、互いに身内であることを悟らせないようにしていた。客がまだいるときに亜沙子が食べ終われば、レジで会計をすませていったん外に出て、裏口に回って厨房に入り、疲れていなければ皿洗いなど手伝うこともある。無論亜沙子が金を支払っても、田部井家で動く金に変化は起こらなかった。
「それがそうでもないみたい。一応今の段階ではひき逃げと殺人の両方の線で当たっていくんだけどね」
「殺人」と亜沙子が言うと、まるで刑事ドラマのあらすじを譲に教えているみたいに聞こえた。
 彼女は現場検証の様子も話した。
「捜査会議は何時からだい」譲は菜箸で車海老の天麩羅を油から上げた。じくじく音がする。
「十一時。食べ終わったらすぐシャワー浴びる。明日抜けられたらまた来る。ごめんね、いつも」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 豹陣-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2015年8月