豹陣
-中里探偵事務所-

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場面5
ともあれ、絶望による行動はしないというのが、知恵のひとつの特徴である。――H・D・ソロー
『森の生活』
子どものときには十一月というとかなり寒かったような気がするのだが、亜沙子にはあまり暑くないときの夏の日を思わせる。服装を考えればそんなはずはないに違いない。夏はブラウスだったが、今は上着を着ている。子どもと大人の違いもあるかもしれない。子どもが一人で外出するときは徒歩か、自転車だ。今日みたいな日でも当然寒さを感じるだろう。一方ほとんどの大人は車で移動する。足利で働く者ならまず間違いない。車はガラス張りだから、気温が低くても陽射しの強い日は暖房を消したくなるときがよくある。
季節外れの暑さにまいっている亜沙子の鼻とのどに皆川の吐きだしたたばこの煙が侵入した。亜沙子はたばこが嫌いだ。陽射しが強くて暖房も効きすぎて、いい加減頭がのぼせる。おまけに皆川は亜沙子の考えには少しも従おうとしない。皆川の車で朝から回っているが、聞きこみの順番は皆川の意見によっている。意見というよりは押しといったほうがいいだろう。階級は亜沙子のほうが上だが、皆川は亜沙子を軽視している感じだ。基本的に男社会である刑事集団では女刑事がどう見られるか亜沙子はよくわかっている。だから彼女は変に男のプライドをつぶすまねはしない。男の車に乗せてもらい、男のリードで捜査を進めるのだ。それは別にいいのだけど、このたばこだけは勘弁してほしい。
メカニックなデザインのインテリアを眺め回しながら亜沙子は思った。皆川刑事はとてもきれい好きだ。インプレッサは外も中もぴかぴかに磨かれているし、服装も申し分ない。小説などで描かれるくたびれた感じのさえないタイプの刑事ではない。話し方にも嫌味がないし、清潔そうで好感が持てる。高級なホテルのフロント係みたいだ。ああ、煙草さえ吸わなければ一緒に捜査する相棒として申し分ないのだけどなあ。
「この車、とてもきれいね」
亜沙子がそう言うと皆川はまるで恋人の容姿をほめられたかのように照れ笑いをした。
「そんなことないですよ」
亜沙子に顔を向けてそう言うと、ミント入りの煙草の匂いが鼻をついた。小物入れに、氷をイメージした白いデザインのパッケージが乗っている。
窓の外に田畑が広がっている。青い空を見ているとゆっくり後退してきたホンダのステップワゴンのボディにダークグレーのインプレッサWRXの姿が映った。シルバーのステップワゴンのボディがピカピカに磨きたてられていたのだ。ステップワゴンが後退したのじゃなくてインプレッサが追い越したのだ。
「佐野・藤岡 7km」と書かれた緑色の標識を亜沙子は見た。
譲さんによく調べてほしいと言われた人のところにやっと行けるわ。