豹陣
-中里探偵事務所-

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場面7
「ゆっくりやりなさい。疾く走っても、かならずしも生きられるわけではなく、ゆっくり走っても、かならずしも死ぬわけではない」――宮城谷昌光
『晏子』
「電話で済ませませんか」
案の定、皆川は露骨に嫌がった。
「じゃ、私一人で行くから、皆川巡査長は署へ戻って」
「一人でって、どうやって行くんですか」
「タクシーでも拾うわよ」
「もう、しょうがねぇなあ」
皆川巡査長は顔をしかめながら、車をバックし、タイヤを鳴らして進路を変えた。
それきりディーラーに着くまで言葉を交わすことはなかった。
その間、友達と大きな街に行くために、駅まで車で親に送ってもらう女子高生みたいな気分で、助手席に座っていた。
(もう、何で刑事の私が、天麩羅屋をやっている旦那にお伺いを立てて、捜査しなくちゃならないのかしら?)
営業所で得られた情報で、堀内の言葉を越えることはほとんどなかった。
誰にも見つからないようにひき逃げを成功させようとしている人間が、二週間前に車検を頼んで当日は東京へ出張する。『刑事コロンボ』や『名探偵モンク』ならいざ知らず、実際の事件にはそういうことはほとんどないのではないか。
もしかしたら裏に企みが潜んでいるかもしれない。そういうふうに疑ってかかり、全部確かめていたら、いくら時間があっても捜査は進まない。その事件だけにかかりっきりになって、明けても暮れてもそればっかりやるのだったら別だが、他にもやらなければならない仕事がたくさんあるのだ。
それに、実際の事件は、単純な動機と突発的な犯行によるものがほとんどだ。いや、全てと言ってもいい。
だから、堀内本人にこのような行動を取ることは不可能だと結論づけて、先に進むのが正しいのである。よしんば誰かに頼んだとしても、いったい誰に頼んだというのか。トヨタのスタッフか。バカな。そんなことを快く引き受けるトヨタの従業員がいるはずがない。
タイヤ交換する前のタイヤはすでに処理業者が引き取ったあとだった。業者の連絡先を聞いて電話してみたが、すでに処理したあとだった。
もうこれ以上譲から提案された捜査方針にこだわることはできなかった。
亜沙子は足利署に戻る車の中でも皆川に話しかけようとはしなかった。というのも皆川がいらついた様子を露骨に示していたからだ。