豹陣
-中里探偵事務所-
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場面8
人生がどう転ぶかわからない転換点がいつ、そしてなぜ訪れるのか、そんなことがわかる人がいるだろうか?――スティーヴン・キング
『11/22/63』
熊谷市の郊外、荒川沿いにある工業団地を、シルバーのアウディがタイヤを鳴らして疾駆していた。金属で造られた明朝体の「第一資源株式会社」という文字を、門柱に大きく出している工場に入ると、大きなトラックを縫うようにして走り、事務所の前の駐車スペースでとまった。
カラーシャツの上にジャケットをはおり、ノーネクタイの田部井譲が、事務所のドアに近づいた。
お祭りの屋台で売られているフラッペのブルーハワイと同じ色の作業服を着た受付の女子従業員に、譲は名刺を渡した。あまり高級な生地で作られたとは思えない作業服だった。化粧品もそう高くはなさそうだ。それでも、なかなかきれいに着こなしていた。
「探偵事務所の方が、どのようなご用件でしょうか」
好奇心をあまり隠さずに彼女は言った。
「探偵」と実際に呼ばれてみると、ある種の軟体生物に体中を這いまわられているような、妙な感覚にとらわれた。
譲は昨晩この事件のことを初めて聞かされてから、こうなるような予感を薄々抱いていた。
昼ごろ亜沙子から電話を受け、タイヤ交換をした事実を知り、その後すぐ営業所で確認できたと聞いたときも、やはりそうかと思った。そして堀内について調べるのはここまでで、このあとは宇都宮市の増田英治を重点的に洗うということ、さらには、盗難ナンバーの線も詳細に調べることになったということ、などを聞いてもあまり驚かなかった。予想したとおりだと思うだけだった。だから、彼は名刺作成ソフトを使って、名刺用のそれほど安っぽくはない厚紙で、探偵事務所の名刺を少しまとめて作ったのだ。
中里探偵事務所
所長 中里守
「中里」は亜沙子の旧姓である。名前をどうしようか少し悩んだが、結局「守」にした。高校のとき漢文で教わって以来、彼は『貞観政要』が好きで、今でも時々読み返している。『貞観政要』の中にある「創業は易し守成は難し」から取ることにした。
「ほんのきまぐれから中里守という私立探偵を誕生させてしまったな」と彼は苦笑しながらつぶやいた。