豹陣
-中里探偵事務所-

探偵
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場面10

己(おれ)達は父母から独立したただの女として他人の娘を眺めた事が未だ曾(かつ)てない。
――夏目漱石
『明暗』

 足利署に戻って、県警から動員されている刑事たちに皆川は訊いた。
「田部井巡査部長、かわいいっすよね。結婚してるんですか?」
 橋本巡査長は何とも言えない表情をした。
「何なんすか。そんな顔しないでくださいよ」
「皆川、悪いことは言わねえ。田部井さんにはかかわらねえ方がいい」
 橋本巡査長は机の上に山となったファイルの一つを手に取った。
 橋本の向かい側に座っている山脇繁紀(しげのり)巡査長もファイルから目を離して同じようなことを言った。
「そうだよ。田部井さんにはかかわっちゃだめだよ」
 皆川はメンソールのタバコを二ミリほど短くしてから質問を重ねた。「あの人、何かやばいんすか」
「外山(とやま)組の奴らも田部井さんにはえらく低姿勢でな。事務所に入れば、さっと茶が出てくら」
 橋本のあとを山脇が続けた。
「格闘技がめっぽう強いんだよ。中国かどっかで修行してきたらしいよ」
 皆川は小学生のときからずっと空手をやっている。格闘技をやっている女だと言われても驚いたりはしない。
「なんでも親父さんがカンフーで名の知れた人で、よくテレビとかに出てるらしい。その親父に赤ん坊の頃から鍛え上げられて、国際的な大会にも出たことがあるらしいぜ」
 橋本は読んでいたファイルを山の上に置き、別のファイルを取った。
「初めて外山組に行ったとき、馬鹿な若いもんがちょっかいだそうとしてな、目にもとまらぬ早業でのしちゃってさ。そいつ一週間ぐらい足を引きずってたっていうぜ」
「それに旦那さんもいるからな。変な気起こさない方が身のためだよ」と山脇。
 山脇がさらに、亜沙子がいかに怖ろしい女であるか言い聞かせようとしていると、刑事課のドアが開いて、うわさされている本人が、小作りのかわいい顔を出した。
「あっ、山脇さんと橋本さんも来てたのね」
 コーヒーをすすっていた山脇はむせ返った。
「ゴホゴホゴホ」
「あら、大丈夫?」
 山脇がむせながら返事をしているのにはとりあわないで、亜沙子は皆川を促した。
「皆川刑事、取調べの準備ができたわよ。私、先に行ってますから、すぐ来てくださいね」
 亜沙子はそれだけ言うと部屋を出た。
「じゃ、すいません。自分も失礼します」
 皆川は半分ほど残ったタバコをもみ消すと、上着を抱えて廊下に飛び出た。
「がんばれよ」
「気をつけて」
 橋本と山脇の声が背中に降ってきた。「がんばれ」はわかるが「気をつけて」というのは意味わかんねえなと思いながら亜沙子についていった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 豹陣-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2015年8月