豹陣
-中里探偵事務所-

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場面13
賢明なのは、規則を破りつつ、なおかつ生きながらえること。――ジョージ・オーウェル
『一九八四年』
案の定、皆川は嫌がった。今日こそは増田を落としてみせますよと意気込んでいる皆川をやっとのことで説き伏せてトヨタの営業所に行った。受付のきれいな女性に堀内の車検を担当したスタッフを呼んでもらった。名札バッジに「高橋理恵」とあった。
理恵はスタッフルームに入って関通郎(みちお)に声をかけた。
「警察の方が係長に話を聞きたいって来てますよ」
関は覚悟を決めた。とにかく「関通郎」という名前は出せない。いちかばちか、天に己(おのれ)の運を預けるのみだ。胸の名札バッジを外し、営業課長野村友憲の名刺が二枚、名刺入れに入っているのを確かめた。課長の名刺を手に入れるのはたやすい。商談が終わった直後のテーブルを漁れば、客が持ち帰らずに置いていった営業マンの名刺が入手できる。商談後のテーブルを片付けるついでに失敬してしまえばいいだけだ。「気が利くね」と感謝されることはあっても、怪しまれることはまずない。
白い大きなテーブルで亜沙子と皆川が受付嬢の運んできたコーヒーを飲み始めたところで、営業マンが現れた。
「どうも、お待たせしましてすみません。私、営業課長の野村友憲と申します」
関は頭頂部が皆川の目の高さに来るほど腰を折って挨拶した。
室内は禁煙なので、皆川はいらだった様子で名刺を受け取り、ろくに見もしないでポケットにつっこんだ。亜沙子は丁寧に受け取り、代わりに自分の名刺を渡した。
「あなたが堀内さんの車の車検を担当されたんですか?」
と、亜沙子は生真面目な顔で訊いた。
「はい、それがなにか?」
「堀内さんが車検中だったことを、担当なさった方に直接確認しておこうと思いまして」
「そうですか。堀内様とはもう長いお付き合いです。きちんとした方ですよ。点検なども欠かさずご用命いただいております」
「今回の車検でお気づきになったことなどありませんか。どんな小さなことでも結構なんですが」
関は困った顔をして首を傾けた。
「いやあ、別に変わったことはありませんでしたけどねえ」
亜沙子は困惑した。もう訊くことがない。何を訊こうか考えて、とりあえず口を開こうとした時、
「田部井巡査部長」
と、皆川が低い声で一言だけ言った。
彼が何を言いたいか、亜沙子にはよくわかっていた。
亜沙子は暇(いとま)を告げた。その時には皆川はもう立ち上がっていた。
二人がインプレッサに乗って立ち去るのを関は見送った。そして、安堵の溜息をついた。