豹陣
-中里探偵事務所-

探偵
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場面16

彼はある意味に於(おい)て、この細君から子供扱いにされるのを好いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事が出来たからである。そうしてその親しみを能く立ち割って見ると、矢張(やはり)男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然脊中を打(ど)やされた刹那(せつな)に受ける快感に近い或物であった。
――夏目漱石
『明暗』

「私が豹(ひょう)陣になりましょう」
「ヒョウジン?」
 皆川は面食らっているようだった。
「昔の兵法です。瀬戸内海で活躍していた水軍の村上氏が編みだした戦法なんです」
 皆川はそのまま凍っていたが、譲はまったく気にとめずに、話を続ける。
「豹とは、動物園にいる豹ですよ。弱いほうの陣営を豹陣、それに対して、強いほうの陣営を、虎の陣と書いて、虎陣(こじん)というのですね。村上氏というのは、簡単に言えば海賊なんですが、源平の争乱にも重要な役割を果たしていて、その地方の一大勢力だったんです。皆川刑事は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』をお読みになったことがありますか」
 皆川は、ぼそりと言った。
「司馬遼太郎は、読んだことがないですね」
 皆川は、本を読むのはきらいではなかった。仕事柄ということもあるのか、やはり推理小説が好きだ。東野圭吾のガリレオシリーズが一番好きだ。自分の仕事とは線を引いて、純粋に楽しんでいた。実際の捜査は、推理小説のようにはいかない、と身にしみて理解していた。だけど、実際の捜査を、もっと向上させることもできるのかもしれない、とわずかに考える自分がいるのもたしかだった。実際に、推理小説からヒントを得て、捜査方法を変えたことも、いくつかはあったのだ。しかし、歴史小説が捜査に役立つとは、考えたことすらなかった。司馬遼太郎の小説といえば、坂本龍馬とか新選組とかのイメージであった。刀で斬り合いする時代物が、現代の犯罪捜査になにかヒントを与えてくれるというのか?
 はじめ、皆川は、そういう思考パターンで、譲の話と向きあった。だいたい、「兵法」とか、「豹陣」とか、「虎陣」とかいう古風な用語がでてきた時点で、ほとんど拒絶反応が起こった。

 場所は、「あをやぎ」だった。
 譲が亜沙子に、皆川を招くようにいったのだ。
 食事と酒の用意をしているといったら、皆川は承知した。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 豹陣-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2015年8月