豹陣
-中里探偵事務所-

探偵
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 譲は、如才なく話をもっていく。間の取り方をわきまえている。相手の興味のない話題をあまり長く続けず、魚をさばいたり、膳を並べたりすることに没頭して、自然と話を中断する。相手は、譲の話などどうでもいいという顔で、また、刺身や酒を、口に運ぶ。
 すると、譲は目に鮮やかな白いタオルで手を拭きながら、司馬遼太郎の話を続ける。
「海軍に秋山っていう、戦術の天才がいたそうなんです。日露戦争で、当時、世界最強といわれた、バルチック艦隊を全滅させた人なのです」
「全滅」
 という言葉に、皆川は興味を持った。
「もし連合艦隊に、参謀の秋山中佐がいなかったら、司令長官の東郷平八郎はバルチック艦隊に勝てなかったと、司馬遼太郎は書いています。もしそうだったら、日本はロシアに征服されていたかもしれません」
「日露戦争って、日本にとって、それほど重大な戦争だったんですか?」
 だれそれがいなかったら、なになにの戦いには勝てなかった。そんな話が皆川は好きであった。NHKの大河ドラマなどは、わりとよくみるほうであった。しかし、司馬遼太郎がそういう面白さだとは、いままで気づかなかった。司馬遼太郎に対して、自分の触手が動くような気がした。
「はい、ロシアに勝ったので、日本は列強の仲間入りができたみたいですよ」
「その勝利に導いたのが、秋山という人なんですか」
「ほかにも、貢献した人物が、たくさんでてくるんですが、秋山真之(さねゆき)は、『坂の上の雲』では、一番重要な登場人物として描かれていますね」
「で、その豹陣でしたっけ、それは、どういう戦術なんですか?」
 と、いつの間にか皆川は、譲の持ちだした、聞き慣れない用語の意味をきかずにはいられなくなっていた。
「秋山真之は、村上氏の戦術以外にも、数多くの戦術書を読んで、日本海海戦の作戦を立てたんですが、村上氏の豹陣・虎陣は、そのほんの一例です」
 譲は、車海老を手で摘まみ、溶いた粉をまとわせる。
「それで、この戦術がどういうものかというと、先ほどお話しした、弱い艦隊の豹陣と、強い艦隊の虎陣を、巧みに使いわけるのです。まず、豹陣が弱々しくでていって、戦いを挑みます。敵が応戦すると、豹陣はひるむ。ひるむだけでなく、だんだん後ずさりする。敵は、これはいただきだと、ほくそ笑む。それで、どんどん豹陣を追いかけていく。そして、豹陣を入江に追いこみ、仕留めようとしたときに、豹陣のうしろから、虎陣がぬっと顔をだす。とまあ、こんな具合なんです」
「それは、たしかに、うまい戦法ですね。よくある手のような気もしますが」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 豹陣-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2015年8月