豹陣
-中里探偵事務所-

探偵
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場面17

私は手をのばして押しとどめ、彼が私の出した手を引き抜いて湖に投げこまぬようにと祈った。
――レイモンド・チャンドラー
『湖中の女』

 寝間着に着替えると、譲は食器棚からバカラを取り出し、氷とボウモアを入れ、テーブルに向かった。ノートパソコンのディスプレイをひらき、電源を入れる。バカラをわずかに傾け、ボウモアを口に流しこむ。このウイスキー独特の潮の香りが鼻腔を刺激する。
 ヤフーメールをひらくと、皆川からの返信があった。クリックする。

田部井譲様

メールをありがとうございました。

早速読ませていただき、彼が探偵事務所に行くように仕向けるという譲さんのご提案についてあれからよく考えてみましたが、やはりあまり賛成できることとは思えません。

もし、彼が偽名を使ったことが怪しいのであれば、探偵ではなく、警察が調べた方が速いのではないでしょうか? 営業所で保管している書類などを詳しく調べれば、彼を起訴するための証拠も見つかるはずです。それに、令状も取れそうですから。

しかし、譲さんのご協力には非常に感謝しています。正直なところ、はじめは私も彼に対してあまり疑う気持ちを持っていませんでした。その考えを変えていただいたことは、本当にありがたいと思っています。

あとは、こちらの方でなんとかしますので、どうかこの件に関しては、この辺で手を引いていただければと思います。それでは失礼します。
皆川茂彦

 譲は読みながら、ボウモアを何回か口に含んだ。バカラの中は半分ほどになっている。
 皆川からの返信の内容は譲が予想していたとおりだった。軽い失望感はあったが、それでもよい方向に進んでいることは間違いなかった。あとは予定どおりにまたメールをするだけだ。それにしても、皆川とメールでやりとりができるようになったことはよかった。
 彼は、あの夜、皆川と話をしたあと、自宅で亜沙子と話しあった。亜沙子は皆川を説得することをいやがった。直接話しあってほしいといった。それで、メールアドレスを教えてもらえるよう頼んでほしいと亜沙子にいったのだった。
 譲は席を立ち、ボウモアと氷をたした。少し思案して、ノートパソコンのキーを静かにたたきはじめた。

皆川茂彦様

いつも大変お世話になっております。
メールをありがとうございました。

私も彼のところへ警察がいって尋問するほうが速いと、まず思いました。しかし、その場合彼は言い逃れをするでしょう。二つの事件と同じナンバーの車を、二つながら車検で担当していたと知って、警察と極力関わらないように他人の名刺を渡してしまった。もし私だったらこんなふうに答えるかなと思いました。この返答は割合自然なものと受け取られるかもしれません。有力な証拠はないので、はたして有罪に持ち込めるものか、不安が残ります。

それよりも、探偵が彼のところへいって、別人の名前を語ったのはなぜか問い詰め、警察に教えるぞと脅したほうが、彼を動かすかもしれません。もちろんなにか握っていると彼に思わせるようにします。そのとき、彼が妙な動きをしたら、逮捕したり取り調べしたりしやすいのではないでしょうか。ご一考いただければ幸いです。

それではまた後ほど。
田部井譲

 一度読み直して修正を加え、「送信」をクリックする。
 譲は店の収支決算を確認しはじめた。一人雇う余裕はありそうだった。大塚優果(ゆうか)を雇うことに決めた。
 氷が溶けて、ウイスキーが薄まり、グラスの外側にはびっしり水滴がついていた。濡れた手を布巾でぬぐっていると、スマホが鳴りだした。皆川からだった。
「はい。田部井です」
 挨拶を交換すると、早速皆川は本題に入ってきた。
「先ほどメールを読ませていただきましたが、関はほんとうにそんなふうに言い逃れをするでしょうか」
 譲は少し間を置いた。スマホの向こうから犬の遠吠えが聞こえてきた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 豹陣-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2015年8月