豹陣
-中里探偵事務所-

探偵
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場面20

僕は大きな火事には極度な緊張の一瞬があるように思っている。そのとき、ポンプの水は噴出をやめるし消防夫の梯子(はしご)の上る姿一つ見えないだろう。誰一人動かない。黒々と見える屋根の飾り縁が音もなく迫(せ)り出してくる。炎々と燃える炎を包んで高い壁が静かに傾いてくる。人々はただ肩を張って、目を見つめて、恐ろしい一撃を待っているのだ。
――リルケ
『マルテの手記』

 雨がここ何日か降りつづき、車内の空気は湿っていた。湿っているだけでなく澱(よど)んでもいた。澱んでいる中には、いろいろな臭いが混ざりあっていたが、煙草の臭いがいちばん強かった。車に乗った瞬間から、顔の脂や鼻の粘膜に煙草の臭いがしつこくへばりついてきた。
「関さんはランドクルーザーに乗っているんですね」
「ええ、そうなんです」
 しかし、関が煙草を吸っているようすはまったくなかった。
 足利インターから北関東道に乗り、岩舟ジャンクションで東北道に合流し、栃木都賀ジャンクションでまた北関東道に分岐した。その間は、稲を刈りおわったあとの水田といろいろな作物を育てる畑が雨に煙(けぶ)る情景だった。
 壬生パーキングエリアが近づくと、休憩するかと関がきいた。譲が同意すると関はウインカーをだした。
 高速道路公団が民営化されてからパーキングエリアもよくなった。店を構える外食産業も民営化されたからだ。彼らはコーヒーを買って、席に運んだ。
「しかし、どうして中里様はここまで私に優しくしてくださるのですか」
「優しくしているとは、どういうことですか」
 関は紙コップをテーブルに置いた。
「いえ、私が勝手に勘ぐっているだけなのかもしれませんが、中里様がこんな私に普通以上に優しく接してくださることを、ずっと不思議におもっているのです」
 関は顔を近づけて、声を落とした。
「先ほどからどういったらいいか考えていたのですが、実は少しご相談したいことがございまして……」
「それはまたどういうことでしょう?」
「そうですね、ここではなんですから、車にもどったらお話しさせてください」
 飲食スペースは混みあっていて騒がしかった。これでは、どんな話をしていてもだれも気にはとめまいとおもいながらも、譲は同意した。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 豹陣-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2015年8月