豹陣
-中里探偵事務所-

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宇都宮の近くには、タイヤを捨てるのにほどよい山道がたくさんあった。栃木市の真名子というところにゴルフ場があった。その近くに小さなお堂がある。あたりは山林で、タイヤの捨て場に困らない。人もめったに通らないから、隠れてなにかするにはもってこいである。
そこにいく途中で、譲はきいた。
「さきほどお願いしたことはもうだめでしょうか」
なんのことか関は考えていたが、すぐに「ああ」といって、
「なぜこのようなことになったか、そのいきさつをお聞きになりたいということでしたね」
「はい」
「わかりました。お約束ですから、お話ししましょう」
関は「ハアー」と深いため息をついた。
「世の中、いつどこに地獄が口をあけているかわからないものですね。たぶんほかのかたもそうでしょうが、私はそんな目に遭うこともなく一生を送るものだと、ずいぶん気楽に考えていましたよ。しかし、実際は間違いなく、どこかのだれかのうえには、確実にひどい災難が起こることになっているのですね。私はほんとうにそのことを身にしみて理解しましたよ」
自動販売機で買ったコーヒーを左手で持って、関は音を立てて飲んだ。
「九月のある夕方のことでした。車検のお客様の車をお預かりした私は、営業所にもどる途中、佐野の市街地を走っていました。目に差しこむ夕日で、周囲の状況を把握するのは、普段よりたしかに大変でした。そのことが起こったとき、私の視界に入ってきた黒いものを避けるために反射行動をとることは、まったく不可能でした。ですから、ドンという音と車への大きな衝撃のほうが、先にきたのです。路上駐車していたワンボックスカーの陰から飛びだした人を轢(ひ)いてしまったことを、次の瞬間にやっと頭は理解しました。しかし、私の気持ちはそれを認めたくありませんでした。間接的に伝わってきたタイヤからの感触も、私にはとうてい信じられないものでした。実際に目で見てみれば、意外と本人はたいした怪我(けが)もなく無事だったということもあるかもしれないではないかと、自分に言い聞かせている私がいました。私は車をとめ、ドアを開け、車のうしろまで走りました。素早く走ったつもりでしたが、なんだかスローモーションで自分が動いているみたいにおもえました。男の人がぐったりと倒れていました。タイヤに踏まれたとおぼしき箇所がへこんでいて、血と内臓がでていました。首や腕の角度があまりにも不自然になっていました。私は、すぐに救急車と警察を呼ぶべきだったでしょう。事故の責任をとるべきだったでしょう。遺族に償うべきだったでしょう。無論そのときの私は自分の良心の声に従うつもりでした。しかし、よかったのか、悪かったのか、そのときあたりにはだれの姿も見えなかったのです。私は迷ってしまったのです。すでに事切れているその人を病院に連れていっても無駄なことは明白です。だったら、このことを胸に秘めて、自分の家族を不幸にしないためにも、精一杯真面目に働いて生きていくほうが、私の選ぶべき道なのではないか。この気の毒な人も、そのほうがいいと天国でいっているぞ。そんな、悪魔のささやきが、私の頭の中に突然聞こえてきました。早く決断しないとだれか人がくるぞ、という声も聞こえてきて、結局私はその声に負けてしまいました」
そこにいく途中で、譲はきいた。
「さきほどお願いしたことはもうだめでしょうか」
なんのことか関は考えていたが、すぐに「ああ」といって、
「なぜこのようなことになったか、そのいきさつをお聞きになりたいということでしたね」
「はい」
「わかりました。お約束ですから、お話ししましょう」
関は「ハアー」と深いため息をついた。
「世の中、いつどこに地獄が口をあけているかわからないものですね。たぶんほかのかたもそうでしょうが、私はそんな目に遭うこともなく一生を送るものだと、ずいぶん気楽に考えていましたよ。しかし、実際は間違いなく、どこかのだれかのうえには、確実にひどい災難が起こることになっているのですね。私はほんとうにそのことを身にしみて理解しましたよ」
自動販売機で買ったコーヒーを左手で持って、関は音を立てて飲んだ。
「九月のある夕方のことでした。車検のお客様の車をお預かりした私は、営業所にもどる途中、佐野の市街地を走っていました。目に差しこむ夕日で、周囲の状況を把握するのは、普段よりたしかに大変でした。そのことが起こったとき、私の視界に入ってきた黒いものを避けるために反射行動をとることは、まったく不可能でした。ですから、ドンという音と車への大きな衝撃のほうが、先にきたのです。路上駐車していたワンボックスカーの陰から飛びだした人を轢(ひ)いてしまったことを、次の瞬間にやっと頭は理解しました。しかし、私の気持ちはそれを認めたくありませんでした。間接的に伝わってきたタイヤからの感触も、私にはとうてい信じられないものでした。実際に目で見てみれば、意外と本人はたいした怪我(けが)もなく無事だったということもあるかもしれないではないかと、自分に言い聞かせている私がいました。私は車をとめ、ドアを開け、車のうしろまで走りました。素早く走ったつもりでしたが、なんだかスローモーションで自分が動いているみたいにおもえました。男の人がぐったりと倒れていました。タイヤに踏まれたとおぼしき箇所がへこんでいて、血と内臓がでていました。首や腕の角度があまりにも不自然になっていました。私は、すぐに救急車と警察を呼ぶべきだったでしょう。事故の責任をとるべきだったでしょう。遺族に償うべきだったでしょう。無論そのときの私は自分の良心の声に従うつもりでした。しかし、よかったのか、悪かったのか、そのときあたりにはだれの姿も見えなかったのです。私は迷ってしまったのです。すでに事切れているその人を病院に連れていっても無駄なことは明白です。だったら、このことを胸に秘めて、自分の家族を不幸にしないためにも、精一杯真面目に働いて生きていくほうが、私の選ぶべき道なのではないか。この気の毒な人も、そのほうがいいと天国でいっているぞ。そんな、悪魔のささやきが、私の頭の中に突然聞こえてきました。早く決断しないとだれか人がくるぞ、という声も聞こえてきて、結局私はその声に負けてしまいました」