豹陣
-中里探偵事務所-

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場面22
この世のいかなる生き物も、現実世界の厳しさの中で、つねに正気を保ち続けていくというのは難しい。――シャーリイ・ジャクスン
『丘の屋敷』
関は車の中で、使い捨て携帯電話を使った。
「もうこれ以上はできません」
電話の向こうで、宮原の、威圧的でも高圧的でもないのだが、妙にあらがいにくい声がする。
「困りましたね、関さん。本気でそんなことをおっしゃっているのですか」
「本気です。事故を目撃したことを警察に通報してくださってかまいません。これ以上こんなことを続けることはできません。私は警察に出頭してひき逃げしたことを正直に話す決心をしたんです」
「そうですか」宮原はそういったまま、しばらく黙っていたが、そのうちに関を諭すように語りかけた。「大変立派なお心がけです。しかし、私のビジネスに関わるのがいやで、そうおっしゃるのでしたら、もう一度考え直してもよいかもしれませんよ。あなたがそこまでいうのでしたら、私もこれ以上無理に仕事を頼むことはしません。どうですか、私の仕事に今後いっさい関わらないで済むということになるのであれば、あなたも刑務所で暮らすことよりもご家族といっしょに暮らすことをお選びになるのではありませんか」
「それは……」関は宮原の意外な言葉に言葉を失った。「まあ、そうですが、……しかし」
「もちろん、私にも、自分のビジネス上の不利益を見過ごす考えはありません。ですが、あなたがそこまで追いこまれてしまわれたというのでしたら、検討しないわけにはまいりません。どうでしょう? 今後いっさい私はあなたに関わりません。あなたが今まで私のビジネスに関わった証拠になるものも、すっかりあなたにお渡しします。ただし、あなたがまだしばらく私の仕事を引き受けてくださったら、かなりの収益が見込めたことも確かです。ですから、その損害賠償をあなたがお支払いいただくというのは?」
「損害賠償? ……い、いくらですか」
「五百万ではいかがですか」
「五百万!」
関は考えこんだ。考える余地はあるとおもった。まさか宮原がこのような形で譲歩するとはまったく予想していなかったからだ。宮原は絶対に自分を離さないはずだから、自首するしかないとおもっていた。自首して、宮原のこともいってやるつもりだった。それしか、自分に残された道はないとおもっていた。しかし、宮原はそれ以外の道があることを目の前に提示した。その道を選べばこれまでどおり自分は生きていけるかもしれない。問題は宮原が約束を守るかどうかだ。しかし、これは考える必要がない。守らなかったら、自首するまでである。ただ不思議なのは、なぜ宮原がこのような提案をしてきたかだ。おそらく宮原も余裕がないのだろう。俺が自首することは予測していなかったのかもしれない。これは賭けてみる価値があるかもしれない。しかし、五百万は大金だ。二百万ならなんとかなるが、五百万だと、由里子に話さないわけにはいかない。由里子に話すなんて、考えただけでも恐ろしい。おいおい、俺は矛盾しているぞ。自首するとなったら、由里子にもっとつらい思いをさせるのに、自首しなくてもすむかもしれないと考えただけで、もう由里子からなにかいわれることをいやがっている。そんな理屈はともかくとして、やはり由里子にこのことを相談するわけにはいかない。