烏賊がな
-中里探偵事務所-

探偵
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場面28

男のすることは、女次第なのだ。すべての女性と同様、彼女もこれは強い本能から知っていた。
エド・マクベイン
『キングの身代金』

 明後日の講義の準備をしていると、ゼミの学生が二人入ってきた。コーヒーの準備をしはじめると、またドアをたたく音がする。人がくるときというのはそういうものだ。どうぞというと、ドアが静かに開いた。聴講生の顔がみえた(ほんとうはまだ聴講生ではないのだが、学生にはそういってあった)。コーヒーの豆を増やす。四杯分ドリップする。適切に抽出しおわったコーヒー豆の砕片は、大きなドリッパーで手早く淹れたから、周辺部をたっぷり膨らませ、中心部は奥行きのある洞穴のようになっており、かぐわしい匂いを放っている。
 現在の鴻上幹雄(こうがみみきお)の頭の三分の一以上は聴講生のことで占められていた。
 聴講生はこのあいだきたときに次のようなことをいっていた。

 大学を卒業して公務員試験に再挑戦したが、今年も落ちてしまった。来年もういちど受けるつもりであるが、それまでに少しほかの勉強もしたい。前から興味をもっていたイギリス文学の講義を放送大学で受講してみようとおもうと神戸大学の友だちに話したところ、しばらく私のアパートに住んで、うちの大学の聴講生になればと助言された。ちなみにその友だちは一浪して入学したからいま四年生なのである。その助言に従って、大学に問いあわせてみた。しかしやはり、十二月から聴講生として講義を受講することはできなかった。四月まで待たないとだめなのだ。それで四月から正式に聴講生になろうとおもうのだが、友だちのアパートにはもう住みはじめてしまった。家にいると親がうるさいことをいうので、こうやってアパート暮らしをして公務員試験に備えるほうが気が楽でもあるし、もし先生が許可してくれるのであれば、イギリス文学の講義を少しでもはやく聴きたいという気持ちもあったからだ。もし先生が許可してくれなければ、講義を受けるのはあきらめて、友だちの部屋で試験勉強に専念する。親もだいたいそういう話を了解してくれている。また、来年の四月に正式な聴講生になるとした場合、そのときは友だちが卒業しているであろうから、どうするのだという問題もあるにはあるが、来年の公務員試験を受けるまでは暇だし、仮に来年公務員試験に合格したとしても勤めがはじまる再来年(さらいねん)の四月まではどうせ暇だから、引き続きひとりで神戸にアパート暮らしをして、少しでも深くイギリス文学を勉強しようとおもっているし、親もそれでいいといってくれている。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 烏賊がな-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2017年9月