烏賊がな
-中里探偵事務所-

探偵
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場面32

達人が作れば、烏賊の長か方の二本の脚が、烏賊がなに、さわりにくる手応えがわかりますそうなばい。あ、一本じわーっとさわりに来た、ほら、こんどは二本目をのばして押さえにかかったぞ、とか、わかりますそうで。いま、全部の脚で抱きにかかった。それひきあげろ、ちゅうふうで。
石牟礼道子
『苦海浄土』

 優果がノックをすると、中から「どうぞ」という低い声が聞こえた。
 ゆっくりドアを開いて、奥を覗きこむと、天板が厚いガラスの低いテーブルを挟んで、陽菜が鴻上教授の前に座っていた。
「ああ、大塚さん」
 鴻上教授はうれしそうな顔で、優果を空いているイスに座らせた。
「ちょっとだけ待っていてくださいね。いま、卒論の指導が終わるところですから」
「ごめんなさいね。指導が終わったら、私、すぐ帰りますから」
 陽菜はにこっと笑ったが、少しも楽しそうではなかった。
「ディケンズとハリウッド映画の関係性については、もう少しトーンダウンした方がいいとおもうよ。根本君のいいたいことはよくわかるけど、あまり映画に軸足を置かない方がいいんじゃないかな」
「先生がおっしゃりたいことはわかるんですけど、私は、文学というものを、人間の文化的活動全般に敷衍した形で論を展開したいんです。だって、『二都物語』の導入部とか、展開部なんて、とてもスピード感があって、ほんとうに、映画をみているみたいな気がしたんですよ」
「いや、君は、よく理解しているね。僕もほんとうにそうおもうよ。たしかに、ディケンズを読んで育った世代の人たちが娯楽映画の典型的なパターンを確立したのかもしれない。だけど、それを主題にしたいのなら、やはり映画を専門に扱う学科でやった方がいいとおもうんだ。英文科で研究するのなら、あくまでも文章表現に主眼を置くべきだろう。たとえば、主題を、ディケンズが他国の作家に及ぼした影響とするのはどうだろう? 君はこれまで書いた部分にも、他国の作家について結構細かくふれている。だから、そこのところを少し肉付けすればそんなに時間がかからないとおもうんだ。それに僕は映画については門外漢だから、君の考えている方向に沿って適切な助言を与えることはできないからね」
 陽菜は、うつむいてしばらく黙っていたが、そのうちにあきらめたようだった。
「わかりました。先生のご助言に従って、卒論を軌道修正してみます」
 鴻上教授が陽菜をなだめようとすると、陽菜は立ちあがって、コートを羽織り、何の挨拶もせずに、研究室からでていった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 烏賊がな-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2017年9月