烏賊がな
-中里探偵事務所-
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場面33
この場面の現在を現在たらしめているのは、この音楽だ。「ストックヤードの裏手」の奥の酒場の一室を妖精の国に、ワンダーランドに、空中楼閣の一隅に変貌させているのは、この音楽なのだ。アプトン・シンクレア
『ジャングル』
鴻上教授の車に乗りながら、ここまでの首尾は上々だろうと優果はおもった。所長からいわれていたこと。自分の方から鴻上を誘わずに、鴻上を誘うこと。その指示はおおむね果たせたとおもった。事実としては鴻上が誘ったのだが、本質的には私が誘ったのだ。鴻上は引っかかったのだ。しかし、彼は引っかけたとおもっているであろう。そこまではいい。しかし、困ることは、食事のあとに、鴻上が別の場所に連れていこうとするのではないかということだ。別の場所にいくことを辞さない女性であると感じさせながら、別の場所に今日はいけないことを告げるという若干難しい課題をこなさなければならない。しかも、きわめて自然なやり方で。だが、その方法も考えてあった。
優果はスマホをだして、右の指で画面をたたきはじめた。人差し指がもっぱらだったが、ときには中指や親指も活躍した。それを鴻上はちらっとみた。しかし、なにもきかなかった。女子学生がいきなりスマホの操作をはじめることは、鴻上にとってあまりにもありふれた光景なのだろう。
まあ、だいたい予想はしていたが、かなり高級そうな店だった。自分一人なら絶対行かない店だった。家族でも行かないに違いない。
モダンなビルの一階の「ISHII」と瀟洒な文字で書かれたセンスのいいドアを鴻上があけて、「どうぞ」とすすめた。
店内は、適度な照明と、適度な空調と、適度な調度と、適度なBGMで満たされていた。
優果がポカンと口をあけてカウンターをみていると、鴻上が腕をやさしくつかんで、小さなボックス席に導いてくれた。テーブルの前で白い帽子を粋にかぶったシェフが深々と頭を下げた。シェフは「reserve」と書かれたプラスチックの小さな衝立をカウンターの向こうに持っていった。