烏賊がな
-中里探偵事務所-

探偵
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 神戸牛が焼けてきた。鼻と耳への刺激がたまらなかった。おもわず喉が鳴った。シェフがナイフでカットした。断面が鮮やかだった。望ましいバランスで盛りつけると、ウェイターが皿を二人の方(ほう)へ持ってきた。優果は箸で一つつまんで口にいれた。じゅわっと口の中に油が広がって、肉が溶けるように舌の上を覆った。ご飯を一口食べる。肉とご飯と醤油だれが絶妙なバランスで舌を満足させてくれた。味噌汁を少し口に含む。赤だしの風味となめこの食感がなんともいえない。これほど幸福な食事は久しぶりだった。「あをやぎ」の天麩羅を食べたことを別にすれば、それがいつだったかおもいだせないほど久しぶりだった。口の中の和風味をできるだけ消滅させるために、一回口の中のものを飲みこんでから、再び肉を一切れ口にいれ、そして赤ワインを口に含んだ。いい。とても、いい。赤ワインと肉のハーモニーには、先ほどとは全然別個のよさがあった。
 優果が神戸牛に集中していると、それをあまり邪魔しないように、遠慮がちに鴻上がいった。
「大塚さん、神戸牛はいかがですか」
 背をまっすぐにした姿勢で体の向きを変えた優果は、満面に笑みを湛えて明るい声をだした。
「すごくおいしいです。ありがとうざいます」
「そんなによろこんでもらえると、僕もうれしくなりますよ。大塚さん、松阪牛は食べたことありますか」
「松阪牛ですか?」優果はわずかに顔をあおむけて考えた。「いえ、松阪牛は食べたことないですね」
「伊勢神宮の近くにおいしいすき焼き屋さんがあるんですけど、今度いっしょにいきませんか」
「伊勢神宮の近くのすき焼き屋さんですか。いいですねえ。でも、どうしようかな」
「来週の火曜日なら、僕は一コマ目の講義をすれば、あとはなにもないですから、お昼を食べにいって、夕方にはもどってこられますよ」
「でも、先生には、いろいろとおごってもらいっぱなしだから、気が引けます」
「気にすることはありませんよ。もし気になるのだったら、松阪牛は割り勘にしようか」
 鴻上の話し方に変化が生じた。敬語をとることによって、少し距離感を縮めようというのだろう。
「ええー! 松阪牛っていくらするんですか」
「冗談だよ。でも、大塚さんは、伊勢神宮にはいったことある?」
「いいえ、ありません」
 鴻上は少し顔を近づけて、優果の目をみつめた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 烏賊がな-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2017年9月