烏賊がな
-中里探偵事務所-

探偵
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「伊勢神宮にいってみたくない?」
「はい、前からいってみたいとはおもっていました」
「じゃあ、きまりだよ。来週の火曜日にちょっといってみようよ。栃木県からいくのとは感覚が違うよ。ここからだったら、ほんとうに、ちょっとそこまでって感覚なんだから」
「うーん、たしかにそんな気がします。でも、なんか、先生にしていただくばかりで、ほんとうに申し訳ありません」
「そんな仰々しく考えなくてもいいですよ」鴻上はまた少し顔を近づけた。「ところで、このあと、ちょっとカクテルでも飲みにいかない? いい店があるんだよ」
「カクテルバーですか。先生が知っているお店なら、きっとおしゃれなお店なんでしょうね」
 優果はまんざらでもなさそうな顔でこたえる。
 鴻上が食事に集中しているあいだに、優果はバッグからスマホをとりだし、山野聡子に電話をかけ、一回のコールで切った。そして、スマホをバッグにしまう。
「どうしたんですか?」
「いえ、たいしたことじゃないんです。友達が夜にメールをくれることになっているので、ちょっと確認してみました。メールがきてないので、電話をかけて、一回だけコールしてみたんです」
「なにか急用なんですか」
「いえ、急用というわけではないんですが」優果は少し暗い表情をした。「彼女、体調を崩してしまったんです。さっき、私、今日はアパートに友達はもどらないから、コンビニで弁当を買って一人で食べるつもりだといいましたが、実はそれは先生と神戸牛を食べにいきたくてそんなことをいってしまったので、ほんとうは友達が部屋で寝ているんです。さっき、電話したときには、彼女が、たいしたことないから、心配しなくていいよっていってくれたんで、私も安心していたんですが、一応念のために、その後の様子がどんな具合か、電話かメールを必ずいれるようにっていっておいたんですけど、一向に電話がこないから、確認してみたら、メールもなかったので、心配になって、電話をいれて、一回だけコールして、彼女が電話してくれるのを待とうとおもったんです」
「なんだ、そんな大変な状況の君を、僕は付き合わせてしまったのか。それは悪いことをしたね。それじゃ、お友達が心配ですね。とにかく、電話をいれてみたほうがいいんじゃないかな」
「いいですか。じゃあ、先生すみませんね。ちょっと、失礼します」
 優果はスマホをバッグから取りだし、早足で化粧室に消えた。
 天井からソニー・クラークのピアノが降ってくる。
「お客様、ワイン、もう一瓶いかがでしょうか」
 ソニー・クラークはこういう落ちついたステーキ屋よりは、客がざわざわいっているスナックのほうが合うんじゃないかな、とおもっていた鴻上は、ウェイターの声で、現実にひきもどされた。
「ああ、ワインね。じゃあ、今度は白にするかな」
 ソニー・クラークの曲が変わり、こういう店にも合う、しっとりとしたものになった。
 うん、ソニー・クラークもけっこういいかもな、と鴻上は自分の感覚がすぐに変わるのを面白いとおもった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 烏賊がな-中里探偵事務所-
◆ 執筆年 2017年9月