烏賊がな
-中里探偵事務所-
28
ほどなく岡本女史の長男で小学校にいっている男の子が帰ってきた。ものすごい水がやってくるという。子供のいう「ものすごい」というのはどんなものなのだろうとおもい、夕子は外をみようと玄関にいきかけたが、女史がオーブンから焼きたてのクッキーをだして勧めたので、またテーブルにもどってしまった。男の子もイスに座って、クッキーに手をだしているのをみると、水がそれほど差し迫ったものであるともおもえなかった。女史がかけたレコードを聴きながら、話に花を咲かせているうちに、床に水が流れてきた。三人は大事な物が濡れないように、高いところにあげていった。そのうちに落ちつくだろうとおもっていたが、水はひく気配をみせるどころか、腰の高さを越してしまった。大事な物が濡れたらどうしようなどといっている場合ではなくなってきた。三人はテーブルやイスの上にあがった。窓を開けておけばよかったとおもったころは、もう遅かった。三人は天井までわずかの空間に顔をだして、やっと息をしていた。もうだめかとおもったとき、窓が開いた。はじめはだれだかわからなかったが、ほどなくそれが、婚約者の知り合いの根本だということに気づいた。なぜと考える余裕はなかった。無我夢中で彼の腕にしがみつき、屋根の上までどうにかこうにか這いあがった。根本は岡本女史とその息子も助けだした。
根本が命がけで救出活動をしているころ、夕子の婚約者の鴻上はやっと大阪からでてきたばかりであった。しかも、彼は、神戸のある地点までくると、道路が川のようになっているのをみて、大阪に引き返してしまった。
根本は夕子を前から好きだった。夕子が根本の愛情に応えるのには、それほど時間を要しなかった。
鴻上は、根本にひかれる夕子の心情を、この事件のあとにふたたび自分にひきもどすことはできなかった。
夕子を妻にした根本は、故郷の岡山にもどり、実家の近くに写真館を開いた。しかし、数年後、根本は戦地に赴いた。そして、フィリピンで負傷した。地雷を踏んだのだ。片足を切断した彼を、戦後何年か夕子は看病したが、結局亡くなってしまった。彼女は神戸の義兄の家にも大阪の実家にももどらなかった。実家は格式のある家柄で、根本との結婚を認めなかったため、駈け落ち同然に岡山に移り住んだ夕子とは絶縁状態になっていたのだ。根本の実家は貧しく、夕子に援助の手をさしのべることはできなかった。したがって、夕子は、根本の遺した写真館にそのまま住み、縫製の内職をして、貧苦に耐えながら、一人で根本の忘れ形見たちを育てあげた。
根本が命がけで救出活動をしているころ、夕子の婚約者の鴻上はやっと大阪からでてきたばかりであった。しかも、彼は、神戸のある地点までくると、道路が川のようになっているのをみて、大阪に引き返してしまった。
根本は夕子を前から好きだった。夕子が根本の愛情に応えるのには、それほど時間を要しなかった。
鴻上は、根本にひかれる夕子の心情を、この事件のあとにふたたび自分にひきもどすことはできなかった。
夕子を妻にした根本は、故郷の岡山にもどり、実家の近くに写真館を開いた。しかし、数年後、根本は戦地に赴いた。そして、フィリピンで負傷した。地雷を踏んだのだ。片足を切断した彼を、戦後何年か夕子は看病したが、結局亡くなってしまった。彼女は神戸の義兄の家にも大阪の実家にももどらなかった。実家は格式のある家柄で、根本との結婚を認めなかったため、駈け落ち同然に岡山に移り住んだ夕子とは絶縁状態になっていたのだ。根本の実家は貧しく、夕子に援助の手をさしのべることはできなかった。したがって、夕子は、根本の遺した写真館にそのまま住み、縫製の内職をして、貧苦に耐えながら、一人で根本の忘れ形見たちを育てあげた。