烏賊がな
-中里探偵事務所-
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場面36
僕はよくリュウ・ド・セーヌなどの通りの小さな店先を通りすぎる。古道具屋、古本屋、銅版画屋などの店が、窓いっぱい品物を並べている。誰もはいってゆく人はない。ちょっと見ると、商売などしていそうに見えぬくらいだ。しかし、店の中をふとのぞきこんでみると、誰か彼か人間がいて、知らん顔ですわったまま本を読んでいる。明日の心配もなければ、成功にあせる心もない。犬が機嫌よさそうにそばに寝ている。でなければ、猫が店の静かさをいっそう静かにしている。猫が書物棚にくっついて歩く。猫は尻尾(しつぽ)の先で、本の背から著者の名まえを拭(ふ)き消しているかもしれない。リルケ
『マルテの手記』
「宿敵ですか」
木製のテーブル越しに譲がいった。
「はい、かなり憎んでいるようですね」
優果はICレコーダーの停止ボタンを押した。
重要な行動を計画するときは、直接打ち合わせをするきまりになっていたので、優果は陽菜に会った翌朝に飛行機に乗り、羽田から京急で浅草に、浅草から東武線で足利に帰ってきたのだった。「中里探偵事務所」のオフィスで、所長の中里守(田部井譲)、栃木県警の山脇繁紀(しげのり)巡査長、優果の三人で打ち合わせがはじまった。
中里探偵事務所の所長、中里守は、天麩羅「あをやぎ」の主人、田部井譲でもある。田部井譲は、打ち合わせに先立って、江戸前寿司を握った。天麩羅屋ではあるが、京都の一流の料亭で修業をした彼は、日本料理なら一通りこなせる。東京の料亭でも修業をしたことがあるから、江戸前の寿司も握れる。「あをやぎ」には、天麩羅の素材として、新鮮な魚介類がたくさんそろっている。セットによっては、寿司が三貫ぐらいつくものもあるので、鮪(まぐろ)の赤身やとろなども、生きのいいのが置いてある。
赤身が好きな優果は、寿司のうまさに感激した。とろが舌の上に乗った瞬間に、とろける感触がして、体がふにゃふにゃ溶けてしまいそうになった。夢中で寿司を食べて、煎茶をすすっていると、譲がICレコーダーをかけた。そして、煎茶のお代わりを飲みおわるころ、ICレコーダーを停めた。
「それで、優果さんは根本さんに協力してみますか」
「はい、これで鴻上教授のことを調べやすくなって、よかったとおもいます」
譲はうなずいた。
「そうですね。大変調べやすくなったとおもいます。しかし、洪水の話は驚きました」
「そうですね。なんだか根本さんが気の毒になりました」
「すごい因縁ですね」
「はい」